
amazon → 楽興の時十二章
手に表情があるように、足にも表情がある。その白い足は、子供っぽく、無邪気で、可愛らしく、何よりふっくらとしていた。やがて足から膝、膝から腰、腰から胸と、ある快いリズムで階段(きざはし)を下り、若い女の全身が私の前に現われた。
身体の線が仄かに見える薄い白い長衣(キトン)を着て、黒い短い髪のまわりに、革の編み紐を輪のように縛り、そこに野生の赤いアネモネをまるで花の冠のように幾本も挿していた。
『樂興の時 十二章』(第6の章 アネモネ) 辻邦生 音楽之友社 P96-P97
ウタ・シュトリヒは教壇に立つと、静かな微笑を浮かべたままで言った。
「私は分教場の先生になるのは初めてです。第六級から第一級まで一緒に勉強するのですから、教えるほうも、勉強するほうも、気が散らないように、うまく時間を使うのは大変です。低学年を教えているあいだ、上のみなさんは、自分で勉強していなければなりません。だから、町の学校よりも、一人一人が勉強する気がないと、どんどん遅れてしまいます。そんなことになったら、先生はとても悲しく思います。ですから、あなた方みんなにお願いしたいのは、私を悲しませないように、一心に勉強することです」
同 (第5の章 睡蓮) P79-P80
「畏れながら陛下、城内の街々では目下ただならぬ噂で持ちきりでございます。それを否定することもできなければ、とどめることもできませぬ。いえ、それは刻々本当のこととして王国の人々に信じられるに到っているのでございます」
「その噂というのは、いったい何だね?」
国王が白い長衣の袖をたくしあげるようにして、身を前に乗り出すと、広間に控えた廷臣たちは、自分に下問があったかのように身体を強張らせた。
「さればでございます」大臣は膝で王座の近くへにじり寄ると、囁くような声で言った。「このところ<鉄の人がやってくる>という噂が拡がっているのでございます」
「<鉄の人>?」国王は身体を海老のようにのけぞらすと、驚きの声をあげた。宮廷人たちも身体をびくっと一斉に震わせた。
「はい、<鉄の人>でございます」
「<鉄の人>とは何だね?」
「さればでございます」大臣はますます頭を深く垂れると、言った。「<鉄の人>が何者かを知っている者はございません」
「知らないのに、なぜ騒いでいるのだ?」
「畏れながら陛下、知らないから国民は不安がっているのでございます」
同 (第8の章 百合) P132-P133
辻邦生さんの短篇集「樂興の時十二章」を読んだ(3/27-4/7)。
帯に「十二の名曲への十二の物語」と記され、音楽之友社から出版された本で、フォーレ、ベートーヴェン、ブラームス等の収録されたCDが付いています。
インターネット古書店から購入後、収録曲のタイトルを見たら、すべて知らない曲でした。先行イメージがまったくないのも、それはそれでいいんじゃないかと、一日に一曲と一話ずつ楽しむことに。まず、何もせずにただ曲を聴き、ふーん、となったのち、その一曲をリピートさせながら物語を読み、CDを再生したまま眠りにつく。十二話分、十三曲(一話目のフォーレは二曲)、贅沢な十二日間。
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単純に、物語として「面白い!」と思ったもの。
「第6の章・アネモネ」。曲はサティのグノシェンヌ第4番。
神秘的な語り始め、静かでミステリアスな曲。ここで登場するテオドラの美しさにくらくら。辻さんの描く「生命力にあふれた女性」は、神々しいほどに美しい姿が瞼に浮かぶ。まるで見たことがあるかのように。(そして、「生命の灯火が消えそうな女性」は、青白い肌にやさしい微笑が可憐な儚い美しさ。例えば「第3の章・三色菫」のハンナ。)
「第8の章・百合」。曲はブルックナーの交響曲第1番ハ短調“ウィーン版”より第3楽章。
これにはびっくり。ただただびっくり。こんな話、初めて聞きました。初めから終わりまでそのびっくり度が下がらない。
その他の物語も、非常に鮮明に景色が見えます。文章を読んだ音としてではなく、自分の中で描き出したイメージ、雨季の熱帯雨林を、雨に濡れながら走る女性、マグノリアの花が発光しているように白い色などが。すべて外国で、実際に見たことのないものを。
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読んで「面白い」とか「楽しい気分を味わいたい」とか「何かを知りたい・考えたい」ということが小説を読む理由、というのは一般的な考え方だと思う。で、私は辻さんの小説を特別扱いしていて、それは、「わからない」ことが多いせいではないか、と推測しています。内容がわからない、ではなく、自分が何を面白がっているのかわからない。
辻さんの小説のうち、私に初めてあからさまな感動を引き起こしたのは「円形劇場から」という短篇で、その視点に惹かれ、ともかくこの人の書いたものをもっと読もうとさまざま手にとりました。けれど、長篇はいつも初めで何度も弾かれ読み始められず。開き直り、わからないまま無理やり読み通してもわからないまま読み終えてしまう。連作短篇集の「花のレクイエム」や「霧の聖マリ」も同様で、『自分の中の何かが反応しているけれど、それがなんだかわからない。もちろん言葉になどならない』。中身に対してではなく、読んだことにより起きる自分の反応の理由や内容がわからない。(中身もわからない要素が多々あるのだけれど、それは他の作家さんのもの、特に海外の小説などで何がなんだかわからない、という作品はあります。でも、わからないのにわかろう・理解したいと固執するのには、なんらかの原因があると思うのです。)
「夏の砦」のように、時間の経過や読み返しの作用か、原因ははっきりしていないものの突然変異のように回路が開き「うわー!!」となった実績があるので、これからも辻さんの小説は手に取ると思う。けれど、この単行本も、わからないものが多かった。物語の筋とかそういうことでなく、なんだか「よくわからない反応が自分の中で起きている」、気がする。考えるとか理解するとか、そういうことではないことで。
物語としてわからない実験作もあった。後ろにゆくほど難解・書いてある内容はわかるけれど、意味するところがわからない。なので、時間を置いて再読するつもり。
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初読みから八ヶ月経過し、今回再読してみて、「第5の章 睡蓮」の冷たさが、いいなと思った。子供からの視点、大人としての視点の落差がすっと一直線になった瞬間、ウタの姿の変化がドラマティックです。
他の作品の中身もすっと入ってくる。絵画を見ているよう。
CDは本と関係なしによく聴きます。自転車に乗りながらiPodで聴いていたある時、突然、モーツァルトの「プラハ」に痺れました。
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読む人により感想に大きく幅が出る!という楽しみ。「この話とはいったい?」と感じた作品が、他の読み手に強い印象を残していることを知るのは、興味深いことです。
辻さんの文学と音楽に造詣の深いShushiさんの記事 →
Museum::Shushi Bis ・ 辻邦生「樂興の時 十二章」から『桃』
(Shushiさんの感想・解説を読んで、なるほど、そういう話だったのか、と納得)
*20090206 Shushiさんのサイトと記事へのリンクを修正しました

ブログでも書いておりますがURLの移行をしました。Museum::Shushi bisの本体は「http://shuk.s6.coreserver.jp/MSB/」となります。「桃」の記事は「http://shuk.s6.coreserver.jp/MSB/2006/11/1638.html」
となります。どうかよろしくお願い致します。
リンクを修正いたしました。お知らせをありがとうございます。
この本の読了後、Shushiさんのオペラ観劇の感想を読んだ時、第4の章「銀嶺草」の一場面を思い浮かべてしまいました。こんなふうに音楽を愛し浸りきることが出来ることをうらやましく思います。
今はじめて気づいたのですが、私はあまり辻さんのエッセイを読んでいません。次に選ぶ辻さん作品はエッセイにしてみます(持ってはいるのですが(^^;)
そして辻さん本をはじめ本を読むのはただ自身の快楽の為です・そんなふうに言っていただくと恥ずかしくなります。