
私はながいこと、この屋敷以外の世界を知らなかったし、学校にゆくようになり、新しい友だちができても、私の世界は格別に拡がったようにも思われなかった。学校で私がぼんやり放心することが多いと、最初の父母会で母が注意され、それを父と母が話しあっていたのを、私はひどく心外な気持ちできいていた。私の気持では、学校で自分が放心していたのではなく、この古い沼に似た広い家の細々とした出来事が、睡ったあと夢のなかまで侵入してきたように、学校にいるあいだにも私のこころを奪いさっていて、若い、顔色のわるい、痩せた女の先生の言葉など耳に入らなかったにすぎないのだ。しかし、それを私が放心しているといって非難するとは、なんという間違いだろうと、小さかった私は、ひどく腹立たしい気持で考えたものだった。私が教室の窓の外の大木やその梢の上を流れてゆく雲を見ていたのは、ただぼんやりそうしていたのではなかった。池の隅に暮している亀(この亀は兄のと一緒に若い叔父が買ってきてくれたのだが、兄のは、どこかへ逃げていったため、兄は私の亀を自分のだと言いはったので、私は、それを水槽から奥の築山のある庭の池に移して、そこでひそかに飼っていたのだ)や、池の橋の下に沈めた絆創膏の空罐のなかの秘密の宝や、前の晩、時やが読みさしのまま置いていった本−−−あの青黒い顔をした靴屋の話などのことを気にするなといっても、それはまったく無理なことだった。教室で若い痩せた女の先生の話をきくことができるのは、亀のヒューロイや池の中の空罐の冷蔵庫を持ったことのない生徒たちだけなのだ。私には、ヒューロイがいま岩の上を這いだして、石橋の上で日なたぼっこをしていて、兄に見つかりはしまいか、気が気でなかったし(もちろん私の方が先にかえるのだから、そんなことはなかったが、それでも時おり気まぐれから兄は早退することもあったのだ)それに先生がどんなに面白い話をしてくれたって、ミカエルの靴屋の話ほどに面白いものがあるだろうか。ミカエルは、いったいあんな蒼い顔をして倒れていたんだろうか。ほんとにこのミカエルの靴屋の話は、それまで読んだどの話よりも面白かった。馬車の喇叭がひとりでに歌いだす法螺男爵の話だって、それは面白かったけれど、ミカエルの頭の上でざわざわゆれた大木はうちの樟のようだわ、と私はつぶやいた。
「夏の砦」序章 (最初の一文を全て引用 改行なしで一息に続きます)
辻邦生さんの「夏の砦」を読んだ。
この作品を読むのは二回目。
一回目に読んだのは一昨年の六月、文春文庫を、二週間かけて。
今回は単行本。今年の六月に開催された北展に足を運ぶ際に鞄に入れ、予定通り開場の一時間前に到着し、美術館の脇を走る散歩用の小道の隅に腰を下ろして読み始めた。それから半年、少しずつ、時間をかけて、読んでいった。
この作品を「面白く読んだ人・面白く読める人」は、極めて稀なのでは、と思う。
初めてこの作品を読んだときのこと。
読み始める前に、表紙を開き序章の数行を読んでは本を閉じる、という行為を繰り返した。文章が、英語を読んでいるように、文字は読めるのにそこに何が書いてあるのかわからなかった。まったく自分に歩み寄ってきてはくれなかった。それまで読んだ辻さんの短篇の始まりとは、まったく違う様相だった。
覚悟をきめて読み始めたものの、序章を過ぎると砂を飲むような感覚に陥った。咀嚼はできず飲み込みも困難。「理解がどうこうというのではなく、今はただ最後まで読むべきだ、きっとそうだ」と自分に圧力をかけながら、まるで営業ノルマを消化するように、ひたすらに文字を追った。
いつもは全文を読み終えた後にしか読まない解説等を途中で読んだ。
中身に対してではなく、文章に自分の感覚を沿わせることができず、見知らぬ土地での持久マラソンの完走をめざし道路の白線だけを見て走るような必死さで通読した。読み終わり、どんな内容が扱われていたかは覚えていても、それが何を描いていたのかはまったくわからず、ごくたまに聞き取れた言葉の切れ端を必死にかき集め、精一杯考えた。完全に背伸びの読書だった。
そして今回。
開いてすぐに奏でられはじめた音楽に驚いた。表紙の天使に手をとられゆっくりと軽やかに引き込まれた。序章の、支倉冬子の幼少期の目線と感覚が自分の記憶の情景ととても近い手触りだと認識し、幼さからまだ剥き出しにされている感覚や衝動に興味を惹かれる。内奥に隠された本質として。
そしてそのまま、澄んだ光を透過した冷たい水を飲むように、ひたすらに読み続け、その水に浸りながら、自分の中もその水で満たしながら言葉を聴き、本を閉じて日常生活に戻っても、他の本を読む間も、何かを書く間も、その水の表面がうっすらと波打つのを感じる瞬間を持ちながら過ごしてきた。
目に映る鮮やかな情景。心情吐露と回想風景の色を持たない鉛筆の精密画。
支倉冬子という人の見たこと考えたことがただひたすらに繰り返される描写の羅列。
OHPフィルムに部分を描き、それを幾重にも重ねることで全体像を見る。本当に幾度も同じ地点を通る。繰り返し登場するモチーフが自分の中ではっきりとした輪郭を帯びてくる。これらは私が今触れているパソコンやノートやペンやテーブル、常に携えている携帯電話、階下からのテレビの音、今日と同じように明日又会社へ行きパソコンを使って伝票を処理するのといささかの差異もなく、私の中に存在している。
私は、こんなにまざまざと、一人の人間のことを知ってしまった。現実で毎日会う同僚、家族ですら、こんなにはっきりと見たこと起きたことそれにより考えたこと考えが変化していくその揺れを知ることはない。もしかするとこれからも。
この世に存在しない人間。「フィクションの存在であること」しかも「物語の冒頭(第一章)ですでに消息を絶っている」支倉冬子という女性の存在を、身近に感じているし、これから繰り返し思い出すのだろう。
*
完全に構築され、密閉され、揺らがない世界。
この水を吸い込み、この水の中での呼吸ができるようになると、幾度と無く、この世界に、立ち戻ってくる。どの頁の、どの一文にも息吹があり、それに触れることで触れた瞬間から自分の内の水面を見つめることができるのだから。
初めて読んでからちょうど一年。前とは違う回路が出来たのか、辻さんの文章に馴染んだのか、ようやくこの作品の中を歩く術を身につけたようです。まだまだまだまだ、表面をなでただけに過ぎませんが。
***
実際の、読んだ感想を知りたいと思った方は、カーラビンカさんの記事を是非。辻邦生さんの作品で起きた共鳴を踏み込んで書いていらっしゃいます。 → 伽羅創記
この本を手に取り読み始め、途中で読むのが辛くなった方は、途中を飛び越して、終章だけでも通読を。終章を全部読んだ後に読みさしの地点に戻ってきても問題ありません。途中まで読んだものの、水の重さ・暗さに挫折しそうになった人には、この終章の言葉に至るまでの過程を、歯を食いしばってでも読みたいと思えるような、目が眩むほどの閃光が、最後にありますから。
また、通読された方、直接は関連しませんが、映画「第七の封印」も機会があれば。
最後に、本そのものについては、以前書いた本紹介の記事を参照ください。
終章からも一部引用します
島の男たちが厳しい暗い表情をしており、若いのに、もう年寄りのように深い皺を顔に刻んでいるのは、ここの現実生活の過酷さを物語るばかりではなく、この島のこうしたほの暗い不思議な自然のせいだと考えないわけにはいきません。ひとりで波のしぶく岬に半時も立っていると、この世の涯にいるような寂寥感に襲われて、いやでも自分や、自分の過去のことを考えずにはいられなくなります。ちょうど離れ島に置きさられた人の気持って、こんなかしらと思うこともあるのです。
そのせいでしょうか。島にある家々の内部では、外とはちがって、暖かい色彩の織布を多く飾りにつかって、心地よい、落着いた気分をつくっております。これは暗い厳しい自然を前にした人間の、ほとんど本能的な防禦作用なのかもしれません。私は波しぶきに濡れながら、海のうねるのを眺めてきたあとで、こうした織布の暖かな心地よい色彩を見いだすときほど、心のくつろぎを感じるときはありません。たとえばそこにヴァミリオンの華やかな色の筋が織りこまれていると、それは単なる感覚的な色彩というだけではなくて、すっかり孤独のなかで冷えきった心に、じかに語りかけてくれる相手のあたたかな心づくしという風に感じられるのです。同じ青や紺や緑の織り込まれた掛布をみると、それは濃紺にゆれうごく北の海や、ほの暗い青空とはちがって、それを織りこんだひとの息づかいや、甘い息や、ためらいや、物想いが、私の冷えきった頬をかすめてゆくように感じられるのです。
(中略)
ここでは、私は織布を見ているという感じはまるでありません。私が見たり、感じたりするのは、そこにある生あたたかい息づかいであり、身体のぬくもりであり、冷えきった身体を抱いてくれるあたたかな腕や身体の動きなのです。それはまた幾らかしわがれた暗い声で歌う静かな歌であり、ゆらゆら影を壁にうつしだしている暖炉の火であり、深くこころよく組みあわされた指と指の感触であり、すべすべした頬にさわる唇の乾いた甘さであり、長くのばされた脚と脚のしなやかな感触でもあります。
(中略)
島におりますと、一種の離在の悲しみと一つになって、自分の魂が、明るい飾り窓の光のこぼれる大都会の夜とか、暖かな燈火のもれる窓とか、恋人たちの手紙とか、よみふける本とか、談笑しあう居間の方にさまよってゆくのがよくわかります。おそらく島人たちのこのような憧れの感情は、あの黙々とした暗い表情の下に流れているのではありますまいか。彼らの笑いの人なつっこさ、善良さ、眩しいものを見るような目ばたきなどからもそれは分りますし、また、ここの織物が暗い色調の中に、スペクトルの中に見える輝線のように、一すじ二すじ暗紅色や、時には暗朱色の帯状の縞を織りこんでいるとき、それは、そうした押さえられた感情の下の激しい情感の迸りであるような気がします。暴風雨が近づいて、空の窓の気配が普通でなく、黒い雲があわただしく連なって走ってゆくような夜明け、その白々と冴えた激しい風のなかで見る朝焼けは、暗い雲間のなかににじみ出る僅かな赤い糸のようなすじ目の縞でしかありませんが、その赤い幾すじかは、希望を半ば失いかけた漁師の妻たちにとって、いわば辛うじてすがれる吉兆の一つであり、彼女たちが浜によりそう黒い影は、点々として、夜明けの赤い雲の色に、はかない祈りを託しつづけるのです。そうした雲を染める色は、そのまま織物のなかにも織りこまれていますが、様式化されていて雲の形とは見えないものの、それでも羽毛のように斜めにずれてゆく菫がかった赤紫の、かすりに似た模様などは、そのどこかに、この嵐の朝の不安と希望とのこもごもの思いがこめられていることを感じさせるのです。
「夏の砦」終章
こちらではお久しぶり(かな)です。私が「夏の砦」に関して書いたことは感想などといえないものですので、ご紹介いただき恐縮です。(汗)
「夏の砦」のみならず辻作品を読むと、日々見過ごしていたことが急に新鮮味を帯びて見えてくるところがすごいと思います。辻氏は「地上は喜びの素材でできている」とどこかで書いていましたが、そういう生を生きていた人だからこそ、説得力があるのでしょうね。
きなりさんの辻作品感想、今後も楽しみにしています。
感想、感想といえるような感想を私も書いていませんね。でも、私、カーラビンカさんの書かれた記事(リンクを貼らせていただいた記事)を読んで、共鳴して泣きました。これは本を読んだときに自分の中で起きた衝動を重ね合わせてなのでしょうか。
辻さんの作品で不思議だなあと思うのは、部分だけではその光の強さがわからないところかなと。そこにいたる道のりをすべて辿ることで、その過程を経ることにより回路が開かれ、ようやく感じ取れる言葉と世界というか。
まだまだ読んでいない辻さん本がたくさんあるので、おいおい、読むごとに記事を書く予定です。またお立ち寄りいただけるとうれしいです。
夏の砦は本当に奥深い作品だと思います。執筆にも相当時間をかけられたようですので、そんなに簡単には近寄らせてもらえないような気分を味わいます。僕は3回ほど読んだのですが、いつもまずはその物語る力に圧倒されてしまいます。
僕の中では、夏の砦は廻廊にてと一対をなしていて、思い出すたびに両者が混じり合ってしまう変な気分を味わいます。
きなりさんの感想を読んで、すぐにでも夏の砦にまた取りかかりたくなったのですが、いまは体調がすぐれずそうも行かないのが歯がゆいところです。
またきなりさんの辻作品の感想を読むことが出来るのを楽しみにしています。
「夏の砦は近寄りがたい雰囲気がある」というのが私だけの感覚ではないことがわかりちょっとほっとしたりして(笑)
「廻廊にて」と「夏の砦」とても設定が似ていますよね。アンドレとエルスは鏡像のよう。でも決定的な何かが違う気がします。(ああ、廻廊にてが読みたくなってきた)
辻さんは同じ手法でいくつかの作品を書いていらっしゃいますね。習作?実験?なのでしょうか。複数の発言を区切りなく続ける等、読み始めてから「あれ、これは、」と別な作品が頭をよぎったり。
shushiさんの辻さん作品の解説も楽しみにしています。(ただ「ある生涯の〜」は二巻目以降未読の為、記事を読むのをぐっと我慢しています)
でも無理は禁物ですよ。思いいれさえ持ち続ければ、時間・気持ち・体力のゆとりがあるときにいつでも更新できますし。マイペースで楽しみながらいきましょう(^^)。