
amazon → 福永武彦全小説〈第8巻〉 (1974年)
「愛するというのはどういうことなんですかね、」と私は話し掛けた。「僕は、愛するか愛さないかは自分の意志の問題だと思っていたんですよ。だから愛さないと心に決めて、どんな女性を見ても心を移さないつもりでいたんです。」
「愛されるのはどうですの?」
「僕は愛されるのは嫌いだ。僕は愛するだけでいいんです。これは一種のエゴイズムでしょうかね。愛されるというのは、意識にそれだけ負担がかかって結局は重荷なんです。こっちが愛してもいないのに愛されるのは真平だ。だから意識の量というさっきの考えかたから行くと、僕の愛している意識の量が、相手が僕を愛してくれる意識の量を、いつでも上廻っていることが必要なんです。僕が愛されている以上に僕の方で愛していなければならない。しかしそういうことはなかなか起りませんでしたよ。僕が自分で自分に愛を禁じていたんだから、相手の方の量がいつでも上廻る。」
「つまりそれは、あたしが愛してはいけないってこと?」
彼女はその眼に微笑を湛えて私を見た。そういう論理になるのかな、と私は考えた。
『海市』 福永武彦 新潮社福永武彦全小説[ P200
福永武彦さんの「海市」を読んだ(11/24-12/4)
手元にあるのは「福永武彦全小説 第八巻」。同じ作品の他の本もみつけたけれど、装幀のシンプルさと本文頁の印刷のきれいさからこの本を購入。
八重椿の蕾の花弁を一枚ずつていねいに剥がしていく、その剥がす側と、剥がされる側、「読む自分がどちらにいるのかわからないままに」状況だけが進行していく。
物語の展開がメインの小説(物語)は、先を競ってページを繰らせるから読み終わるのが早い。長さのせいでなく、一頁、一文にかける時間(読む時間、自分の中で考える時間)は短い。
これに対してこの作品は、読者の視点を拡散させていく小説。読む人の意識をしばらない、強力に先を読むことを迫らない、急いでページを繰らせる必要性も感じさせないし、最後まで読む(結末を知る)重要性すら感じさせない。その時に読んでいる部分が何らか作用してくる。物語が鮮烈な印象を放ち続けるので軸を見失うこともなく、自分が気になった思考に思うまま存分に寄り道し立ち止まりながら、読み続けることになる。
ネタバレ的な記載があるので、未読の方はこの先を読まずに実物をどうぞ。
*
主人公の太吉は、ひたむきで、生死をかけるほど真剣に「自分の仕事」のことを考えたことがある、そしてまた、戦争で死ぬよりは好きな女と心中したほうがいいという決心をしたこともある。しかし「生きて立派な仕事をすることが大事だろう」と諭され生に引き止められた、そんな男性。で、そんな男性の「重心の移動」を描いたのがこの小説。
出来事の「何を」大きく見るかで解釈が変わっていく。相手に同情と愛情の両方をあふれるほど抱いていた、その割合なんて本人にしかわからない。恋のさなかにだってそうなのだから、出来事を回想する中では自由にその配分を変えられる。そして、本人が無意識に記憶の中にあるその割合を「変えてしまっている」ことに気づかない。悪意があったり、自分の都合の良いようにねじまげているのではなく、「もともとそうであったように」、今も当時も同じように考えていたと記憶を塗り替えていく。そこで生じるズレはほんの小さなものかもしれないが、固定カメラで植物の成長をコマ撮りした写真を並べて花が開く様子を数十秒の映像として見せられたように、丁寧に連ねられた描写による変遷を眺め、その小さな動きの結果見て取れる人の心変わりの悲しさを思った。
登場人物を卑しめる・悪く言うのは簡単。そうではなく、良いとされるような面や要素だけを列記することによって、その人物の薄っぺらさ、薄情さ、ご都合主義をことごとく浮き上がらせる。
中でも主人公の四十代の画家・澁太吉の描き方(扱い)が過酷。意義のある仕事としての藝術、愛する女性、生きる目的。過去の状況とそこに行っていた意味づけの記憶を、自分自身気づかないまま改ざんしていく。しかもその内面が開示されることはないから、あくまで本人の意味づけによる状況理解のずれを、読み手だけが見る。真摯に「生きるに値する仕事」に取り組み、人を愛する気持ちが細かに描かれ、悪人たらんとする描写はないにもかかわらず、見事に男の身勝手さすべてを持ち合わせたろくでなし加減が描ききられている。主人公の姿は著者自身なのではないかと推測してしまう設定だけに、なんて自虐的な小説なのだろうと思わずにはいられなかった。
描写から見える映像。描写から絵画を連想するのは稀。安見子の裸体の描写から頭の中に描き出されたのは、過去に本か何かで見た有名な絵。くっきりとした色、おわんの乳房、女らしい曲線ではなく、陸上選手のように引き締まって弾力性に富んだ、面の縦の伸びのしなやかさが強調された肌。
そして福永さんの小説の登場人物たちの歩く姿は、当たり前に歩いて少しずつ移動していく様子、その後姿の揺れる髪や周囲の風景まできれいに見える。映画のスクリーンでその光景を見ているかのように。
地味に興味をひかれたのは、太吉と妻の弓子の関係。太吉と安見子の関係は、ひたむきな視線を注ぐ男と気まぐれな行動をする女の、ありがちな恋愛小説の形。もちろんその描写は面白くいちいち気になるのだけれど、太吉と弓子の関係は、この小説で初めて読む様相を呈していた。普通なら照明の当たらない存在の弓子さんがちらりと見せた内面と、そんな弓子さんへの太吉さんからの目線に興味津々。もっとページを割いてほしかった。何を考えているかわからない気まぐれな女性として扱われる安見子の言動とその内面(随所での気まぐれな見える行動という結果に至る心の動き)は、あたりまえにわかる。
* そこまでの背景があってこそのその一文、という文章の積み重ねで出来上がっている小説なので、部分で取り出すと意味をなさない(反対の意味にもなりうる)ような気がします。過程を踏まえることで意味を帯びる断片。引用した文章もその背景(発言者の過去の言動や、心の変遷、内面の動き、その言葉を発する対象→自分をどのように見せようとしているか・見せたいと思っているか)を踏まえたうえでないと意味をなさない一文。
なだれうつ愛と芸術への問い! うねる情熱、ほとばしり落ちる苦悶のしぶき! つねに永遠を想わざるをえない人間の痛切な運命を真向から描いた長編小説。孤独の道を歩み、荒涼たる内面を抱いて十六年――今は未亡人となっている思慕の人に再会した画家。過去、絶望の記憶のひらめきに背いて、しずかに燃え上がる焔。ゴーギャン「タヒチの女」の色彩、ベートーヴェン「月光」の旋律。うちふるえる光と影の交錯のうちに、人生の深淵にせまった若々しい作品。
当時の雰囲気を伝える広告、いいですねえー。この記事に興味をもって訪問してくださった方に付加価値がつきました。
洒落た、という言い回しがしっくりくる作品ですよね。センスの良いというか。作りも言い回しも情景も美しいです。こういうとなんですが、内容は、巷にでまわっている多くのものとそんなに違いはないように思うので、描き方、手法の斬新さや丁寧なつくりなどの「物語以外の部分」が他と異なるのでしょうね。(語り口については、「浅井のゲストブック」で示唆していただいて新しい視点をもらいました。)
読者積極的参加型手法、という表現には同意。
映画的手法と言われて改めて考えたら、本当に映画を見ているのに似た感覚だったと思いました。映画の原作としてどうこう、という意味ではなく、頭の中で映画の上映を見ていたのですね。読むだけで自然に映写される小説。考えて見るとこれは珍しい作用。
推理小説的手法、は、最後まで読んだとき物語の世界がしっかりと閉まり収束したのを感じたので、なるほどと。推理小説的な要素は「死の島」のときのほうがより強く感じました。
推理小説の要素が強いと、書いてある推察部の中身がいまいち理解していないけどそのあとどうなったのかを知りたいと、先を急いで読んでしまい、結果全体の把握もあいまいなまま読み終えてしまうということが起きますが(私にとって「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はそうでした)、福永さんの小説のそのあたりのバランスは、推理小説アマチュアの私のような人間でも面白く読めるようにできているのかなと。