2011 第56回 公募展 [北展]
■開催日 11月16日(水)〜11月20日(日) AM10:00-PM5:00 (最終日はPM4:30迄)
■会 場 山形美術館 1F
■入場料 大人 500円 学生 400円 小中生 無料
■内 容 絵画・彫刻・工芸の展示
半年早いなあ。というか今年一年も早いなあ。そして今回の秋の北展も、劇団山形の公演日と重なりました。何か関連はあるのかしら。
あなたには問題がある。そのことは職場の人たちも知っているし、奥さんも知っているし、義理のお母さんも知っている。そしてご近所の人たちも知っている。問題は、君自身が知らないということだ。
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
DVの原因として考えられているものとして、女性の言動というものがあります。「男性が暴力を振るうのは、女性にそれなりの原因があるからだ」という考え方です。この考え方は、「女性が男性の意に沿わないときには暴力を振るっていい」ということを前提としています。
しかし、女性が彼の気に障るような言動を取ったからといって、彼が恋人やパートナーに暴力を振るう権利があるでしょうか。そんなことはありません。暴力を正当化できる理由は存在しないからです。暴力を振るわれて当然の人間は一人もいません。
DVの原因は、暴力を振るった人にあります。恋人やパートナーを自分の思ったとおりにコントロールしたいという「欲求」と、そのために最も効果的な方法として、暴力を振るうことを正当化する「考え方」が本当の原因です。暴力を振るう男性は、暴力の効果について計算した上で、意識的に暴力を選択しているのです。
Q&A DVってなに?


アサーション権U
私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分の行動を決め、それを表現し、その結果に責任をもつ権利がある。
この人権は、要約すると、あなたは自分自身についての最終的判断権をもっているということです。あなたは、自分がどんなふうに感じ、どう考え、どんな行動をとるかについて、決めたり、判断したりしてよいのであり、その結果について、責任をとることができるのです。分かりやすくするために、少し極端な言い方をすれば、他人がどう思おうと、あなたの感じ方や考え方はあなたのものであり、他人と同じ感じ方や考え方をしなければならないということはありません。また、それを主張する権利も、変える権利もあなたにあるということです。
したがって、逆に、他者も自分の行動を決める権利をもっていますので、あなたは他人を変えることはできないということです。ある有名なアメリカの心理療法家で、「交流分析」という考え方と方法を開発したE・バーンという人は、「過去と他人は変えられない」と言ったそうですが、この事実は、あなたにも相手にも当てはまります。
たとえば、今日は仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って、家族と団欒の一時を過ごそうと思っていたとします。ところが同僚に、一杯飲んで帰ろうと声をかけられました。「今日は、帰りたい」と言ったのですが、さらに「ちょっとぐらい、いいじゃないか」と誘われました。そんなとき、あなたはどうしますか。また、行動を決定した後、そのことについて後悔したり、後味の悪い思いをしませんか。
よくあることは、しつこく誘われて、相手に押し切られた形になって仕方なく一緒に行ってしまうのですが、行きたくなかったのに、家族に何と言いわけをしよう、などといつまでもくよくよしてしまうことです。もうひとつよくあることは、家族に約束したので仕方がないと同僚に言いわけをして誘いを断り、その結果、断って気を悪くしたかなとか、家族と変な約束をしなければよかったなどと、人を気にたり、家族を恨んだりするやり方です。
いずれにしても、このような後悔は自分の決断に責任を取っていないことになります。相手がしつこく誘おうと、そうでなかろうと、一緒に行こうと決心したのであれば、それはあなたが決めたことであり、「行く」と決めた瞬間に、その行動の責任はあなたが取ればよいことになるのです。つまり「行く」と決めたのはあなたなのですから、行きたくなかったのにと相手に責任を被せることはできないのです。さらに、「行く」ことにしたのであれば、そう決めたあなたの気持ちを家族に理解してもらうのもあなたの責任であり、家族に恨まれることを含めて覚悟するのもあなたの責任です。
同僚に断ったときも同じことです。もし、家族との約束を守ろうと決心し、誘いを断ったのならば、それはあなたの決めたことで、家族の責任ではありません。その結果、同僚に悪く思われることを覚悟するのもあなたの責任においてすればいいのです。
(中略)
相手ができないから、あなたにやってもらいたいと思っているからという理由だけで、あなたがそれをしなければならないということはありません。あなたがしようと思えばやればいいし、自分で決めたのですから、できる限りでそのことに責任を取ればいいのです。自分で決めたことですから、責任は取らなければならないのではなく、取れるのです。
自分で決めて、行動しておきながら、それが相手の希望をかなえることであったりする場合、相手のせいでそうなったと考えるとするならば、それは自分の決定権、判断権を放棄しているのであり、自分の決めたことを他者の責任にしようとする操作的で、甘えた生き方です。自分で決め、そのことに責任をとる権利は、他者から押しつけられた義務としてではなく、自分のものとして行使したいものです。
『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所
子どもの中には、たとえば、欲しいおもちゃをねだらない子、小遣いが余計にいるときでも決して言わない子、行きたいところ、買いたいものなど自分の意見や欲求、気持ちを述べない子がします。そんな子どもは、おそらく親に自分の欲求を言ってはならないとか、親の権威には逆らえないとか、自分の希望は親によって決められる、といった体験があるのです。このような子どもは、自己表現を躊躇したり、控え目にしたりするために、分かってもらえず、一方で、「いい子」とされて、だんだん欲求や希望をもつことをあきらめる習慣がついていきます。欲求を意識すると自分の中に欲求不満がたまるので、そんな希望はもたないようにし、長じて(3)の考え方(自分の欲求や希望を言うときは、控え目にするべき)を自己の行動基準にしてしまうのです。
そして、その考え方は、往々にして、自分が権威者になったとき、自分が親になったときに、目下の者、子どもに向かって適応されるのです。つまり、目下の者や子どもには控え目に欲求を出すべきだと押さえ込みたくなるのです。権威に弱い人に限って、権威的な言動をするのをよく見かけますが、それはこのようなメカニズムによって起こっているのです。
(同上)
感情表現の第二のポイントは、言っていることとやっていることを不一致にしないということです。ニコニコ笑顔をして「腹が立った」と言われても、嬉しいのか腹が立っているのか相手には分かりません。相手は、どう受け取ったらいいか分からないため、どう応えたらいいか戸惑うでしょう。このようなとき、アサーティブな人であれば「どちらを伝えたいのですか?」と訊くでしょうが、往々にして多くの人は、必死にどちらかを察して応えようとしてしまうものです。まして、弱い立場にいる人(たとえば子どもとか部下など)が、このメッセージをもらい続けると、常に判断に窮する状況におかれるため、脅威を感じたり、懲らしめられている気持ちになる可能性も出てきます。
このような、言っていること(言語表現)とそれにともなう非言語表現とが不一致な表現を「二重拘束的な表現」といいます。相手を二つの矛盾したメッセージによる拘束状態におき、相手を身動きできないようにしてしまうという意味です。
皮肉、棘のある優しい言葉、ふくれ面をしながら「いいですよ」と言うなどは、二重拘束のメッセージの例です。往々にして非主張的な人の表現は、二重拘束的になりがちです。
また、攻撃的な人の発するメッセージの中には、表現全体として矛盾している場合があります。とえば、「自由にしなさい」とか、「人には頼らないで、自分でやりなさい」というメッセージです。言っていることの内容は「自由を許し」、「自立を促し」ているようです。しかし、その言い方は命令的です。つまり「自由」や「自立」を命令していることになるので、その人の元では、たとえ、自由にしたり、頼らなかったりしても、その人の命令に従っていることになってしまうという矛盾が生じるのです。このようなメッセージに対しては、命令した人の枠を越えて自由になったり、自立したりはできないことになってしまいます。
(同上)
パイナップルの砂糖漬けにつき語るリーザのことが、何度も何度も頭をかすめる。「自分が、自分が望んで望んで手に入れた幸せを満喫する間、罪もない人、まったく罪のない子供が、まったくいわれのない罪により罰せられる、その瞬間にも、その状況を目にしていてさえも、自分の幸せを優先してしまうエゴイストであることを、自嘲的に語る。純真無垢に幸せを享受するのではない、自分が得ている幸せを放り出して苦難の人を救うのでもなく、自分の幸せを優先させるであろう自分、わかった上でそうしてしまう可能性と、その恐れをさらけ出して見せること、そんな屈折した姿を、自分の尊敬する人の前に出して見せること。なぜならそれは、その人自身の姿と、自分とが、重なって見えるから。その屈折の加減がわからない人にそんなことを言ったりしない。
人の言動のもとになるものの見方、考え方の問題点を指摘し、自己成長と人間関係のあり方に大きな影響を与え、貢献した人は、「論理療法」の創唱者A・エリスてす。エリスは、「感情は考え方に対する反応であり、考えは状況に対する反応だ」と述べています。エリスによると、感情は、何らかの状況や出来事に対して抱いたり、状況から引き起こされる反応であるかのように思われているけれども、そうではないと言うのです。つまり、感情は、実はものごとそのものへの直接の感情ということはなく、ものごとを人がどう受け止めたかによって引き起こされるというわけです。いい換えれば、私たちはものごとの受け止め方、ものの見方についてある特定のルールを持っており、そのルールによってものごとを受け止めた結果、ある感情が生まれるというわけです。
エリスの理論は「A-B-C-D理論」とも呼ばれ、英語の語呂合わせを楽しみながら次のように説明されています。
A (Activating event)=ものごとを引き起こすような出来事
B (Belief)=信念、思い込み
C (Consequence)=結果、問題、悩み、症状など
D (Dispute)=論破、論駁
「A-B-C-D理論」でエリスの考え方を説明すると、私たちは、問題や悩み(C)が、それを引き起こすような出来事(A)によって引き起こされると考えがちだが、実はAをどんな考え方で受け止めたか(B)の影響で、Cは引き起こされているということになります。つまり、問題や悩みの起こるプロセスは、A→Cではなく、A→B→Cなのです。
例をあげましょう。誰かがあなたを嫌いだと言った(A)ので、あなたが落ち込んだ(C)としましょう。一般的には、嫌われたので落ち込んだ(A→C)と考えますが、エリスは、嫌われた、ということは落ち込むような出来事である、だから落ち込む(A→B→C)というプロセスになっているというわけです。
ただし、Bには、合理的な思い込みと非合理的な思い込みがあります。そして、特に非合理的な思い込みは、現実的ではなく、その結果、問題や悩みがつくられやすくなります。
右の例で、嫌われた(A)、ということは残念だが、それも仕方がない(B)、となれば、それほど落ち込まない(C)でしょう。考え方がアサーティブであれば、ものごとは現実的、生産的に受け止められ、その結果、言動がアサーティブになっていくのです。
もし、非現実的、非合理的な思い込みを挿入してものごとを受け止めていると、結果(C)は非現実的、非合理的なものになります。エリスは、そんなことにならないように、非合理的思い込みを合理的なものに変えることを勧めます。しかし、その思い込みは誰かとのかかわりの中で体験されたり、言われたり、学んだりしたこと、自分の体験の中から作り出されたことなど、長年の生活の積み重ねによってつくられ、繰り返され、社会によっても強化されているので、簡単に変えることは困難です。そこでそれを変える助けをするには、その考えがいかに非現実的、非生産的であるかを説いて、論破・論駁(D)する必要があると言っています。理性を駆使して、そのような考えを止める努力をするわけです。
『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所
感情を表現しようとするとき、心得ておくと助けになる事実は、「感情はまぎれもなく自分のもの」であり、自分の責任で表現できるものだということです。それは次のような例をとってみればわかるでしょう。
たとえば、誰かが大きな音を立ててギターを弾いていたとしましょう。それを聞いて、「うるさい!」と不愉快になる人もいれば、「すごい!」と聴き入る人もいるのです。つまり、あることに対する感情は、自分が起こしているのであって、ギターを弾いている人が起こしているのではありません。確かに、ギターの音は自分のある感情を引き起こすきっかけにはなったのですが、それに対してどのような感情をもつかは自分が決めているのです。
(同上)
先に述べたように、怒りは、外界の出来事や周囲の人の言動がきっかけになって起こります。そのため、周囲のせいで怒らせられたと思いがちですが、実は、自分が自分を怒らせているのです。怒りの感情は不快ですから、それを自分が起こしているはずはないと考えたくなるのかもしれませんし、怒りのきっかけをつくったものや人に責任を転嫁したくなって、「あなたの話を聞いているとイライラさせられる」とか「私を怒らせないで!」とか「そんなことをするから、怒るんでしょ」と言うのかもしれません。
しかし、これまで何度か説明しているように、怒りは人間のもつ自然な感情で、誰もがもち得る当たり前の感情です。もし、不快だからもちたくないと思っても、もたないですますことはできないでしょう。
(中略)
まず、大切なことは、自分が怒りを感じていることに気づき、認めることです。そして、それはほかならぬ自分が起こしていること、したがって非難すべき人は誰もいないことを確認するのです。先にもいく度か述べたように、怒りは他者の言動がきっかけで起こっているかもしれませんが、自分がそれを気に入らなかったり、不満に感じるときに起こる気持ちです。したがって、怒りを感じたら、自分が怒りの所有者であることを認め、だから自分でどうにかできると考えましょう。
(同上)
コージブスキーは『科学と正気』という彼の有名な著書の中で、「アイデンティティ(あるものが何であるか)を表す『is』(である)」に文句をつけている。私たちが「Aは怠けている」というときは、「Aは朝起きない」とか、「Aは朝起きるのを拒否している」という記述的文章とは、まったく違う意味になるというのが彼の主張である。「Aは怠けている」という文章は、意味が如何ようにもとれる。つまり、さまざまな抽象段階が考えられる。たとえば、「Aは朝ときどき起きない」という意味かもしれないし、「Aは朝めったに起きない」ということかもしれない。また「Aは朝は早く起きるのだが、シャワーを浴びるのに時間がかかる」ということかもしれない。あるいは「Aは朝わざと遅く起きる」ということもあるだろうし、「Aは朝早く起きようと努力はしているが、自分の意志の反してまた眠ってしまう」ということもあろう。「Aは怠けている」という文章記述は、Aは如何なる状況でも常にものごとを遅くしたり、何もしなかったりすることを意味しているように思われる。だが、常に怠けるということがあり得るだろうか? もちろん普通はあり得ない。しかしながら、私たちはこのように如何ようにもとれる文章を絶えず用いている。
(中略)
技術的には私は正しい。しかもコージブスキーより、ときにはボーランドよりもいい線までいった。というのは彼らは「私たちはAを神経症者とよぶことができる」といっているが、これはやや正確性を欠く使い方だからである。彼らは「である」から脱却したものの、それにはAにレッテルをきちんと貼れるという含みがある。しかしレッテルは貼れない! コージブスキーの哲学の本質は、すべてのものは変化するという考え方だからである。それゆえ、バラは赤「である」とはいえない。なぜなら、それはやがて黒くなるかもしれないし、他の色に変色するかもしれないからである。それはバラ「である」とさえいえないのかもしれない。なぜなら、それは埃になるかもしれないし、他の要素に変わるかもしれないからである。同様にAも<神経症者>「である」といえない。なぜなら彼の神経症は変わるかもしれないからである。つまり神経症の症状は消えることもありうる。また好転するかもしれないし、悪化するかもしれない。しかし、コージブスキーやボーランドが「である」回避法で主張するようないい方は、つまり「私はAを神経症者として分類する」とか「私はAを神経症者としてみる」といういい方は、少なくとも技術的にはまだ正確とはいえない。あまりにも一般的で、あまりにも統括的である。したがって、むしろこういった方がよい。「私はAを時間の流れの中のある瞬間、神経症者であると識別する。ということは、彼は神経症的にまったく行動しない時もあるが、大体は神経症であることを知っているということである。また彼の神経症的な行動が変わることもありうるし、神経症の症状が少なくなることもある。あるいは将来まったく神経症でなくなるかもしれない」と。
『神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法』 アルバート・エリス / 國分康孝 監訳 川島書店
あるアメリカの心理学者は、人間関係のもち方には、大きく分けて三つのタイプがあると言っています。「第一は、自分のことだけ考えて、他者を踏みにじるやり方、第二は、自分よりも他者を常に優先し、自分のことを後回しにするやり方、第三は、第一と第二のやり方の黄金率ともいうべきもので、自分のことをまず考えるが、他者をも配慮するやり方」です。
アサーションとは、この三種類の対人関係のもち方の中では、第三のやり方をいいます。そして、私の実施している「アサーション<自己表現>トレーニング」では、第一のやり方のことを「攻撃的」または「アグレッシブ」、第二のやり方のことを「非主張的」または「ノン・アサーティブ」、第三のやり方を「アサーティブ」と呼びます。
a 非主張的自己表現
<非主張的>とは、自分の気持ちや考え、信念を表現しなかったり、しそこなったりすることで、自分から自分の言論の自由(人権)を踏みにじっているような言動をいいます。これには、自分の気持ちや考えを言わないだけではなく、あいまいな言い方をしたり、言いわけがましく言ったり、他人に無視されやすい消極的な態度や小さな声で言うことも含まれます。このような言い方は、一見、相手を立てているようだったり、相手に配慮しているようにみられますが、暗に「私の気持ちや考え、言っていることは取るに足りません 無視しても結構です」と伝えているようなもので、自分の気持ちに不正直で、もちろん、相手に対しても率直ではありません。非主張的な言動をしているときは、相手に譲ってあげているように見えながら、自信がなく、不安が高く、それを隠して卑屈な気持ちになっていることが多いものです。
したがって、非主張的な言動をした後は、「自分はやっぱりダメだ」といった劣等感や、「どうせ言っても分かってもらえないに決まっている」といったあきらめの気持ちがつきまといます。また、相手に対しては、「譲ってあげたんだ」といった恩着せがましい気持ちや、「人の気も知らないで」といった恨みがましい気持ちが残ります。もし本当に相手を配慮し、尊重して相手に同意したり、譲ったりした場合は、自分の決断でそうしているので、気持ちはさわやかで、未練は残らないはずです。非主張的な言動の後では、分かってもらえなかったと思う気持ちや傷ついた感じが残りがちなので、惨めになります。そもそも自己表現してないわけなので、相手に分かってもらおうと期待することは欲ばりなのですが、つい「黙って引いてあげたのに」とか、「相手を立てたのに分かってくれない」といった甘えや、「思いやりのない人だ」とか、「鈍感な人だ」といった相手への軽蔑の気持ちをもったりもします。
このようにして我慢や恨みが積み重なると、欲求不満や怒りがたまり、人とつき合うのがおっくうになったり、頭痛、肩こり、神経症の胃痛などの心身症やうつ状態になります。また、弱い立場の相手に対しては、不当に八つ当たりをしたり、意地悪をしたりすることにもなりかねません。本人自身はていねいに優しくしているつもりでも、生き生きした感じはなく、無表情で、慇懃無礼な振舞いをしていたりします。
一方、非主張的な対応をされた相手も、結果的に被害を被ります。まず、あなたが同意してくれれば自分と同意見、譲ってくれたときはあなたを思いやりのある人だとありがたく思うのが普通です。あなたの真意は表現されていないわけですから、よほどあなたの言っていることに猜疑心のある人でない限り、それが素直な反応です。ところが、その結果、後で恨まれたり、軽蔑されるのではたまったものではありません。また、優先されてばかりいると、あなたに対して優越感や憐れみの気持ちをもったり、逆に従わせてしまったという罪悪感や苛立ちを感ずるかもしれません。
b 攻撃的自己表現
<攻撃的>とは、自分の意見や考え、気持ちをはっきり言うことで、自分の言論の自由を守り、自分の人権のために自ら立ちあがって、自己主張してはいるのですが、相手の言い分や気持ちを無視、または軽視して、結果的に、相手に自分を押し付ける言動をいいます。
したがって、それは、相手の犠牲の上に立った自己表現・自己主張であり、自分の言い分は通っても、相手の気持ちを害したり、相手を不必要に支配したりすることになります。
このような言動をしている人は、一見、表現豊かで、ハキハキものを言っているように見えますが、相手を配慮しないで自分のことだけを主張しているわけなので、結局、相手を踏みにじっていることになります。そこには、「自分が一番」とか「あなたはダメ」といった、その場の主導権を握り、相手より優位に立とうとする態度や、「勝ち負け」でものごとを決めようとする姿勢が見え隠れして、自分に不正直ともいえます。
つまり、攻撃的とは、たんに暴力的に相手を責めたり、大声でどなったりするだけではなく、相手の気持ちや欲求を無視して、自分勝手な言動をとったり、巧妙に自分の欲求を相手に押し付けたり、相手を操作して自分の思い通りに動かそうとしたりすることをいいます。もちろん、不当な非難、侮辱、皮肉、八つ当たりなども含まれます。また、雑談や何気ない会話をしているときの「だめ押し」や「一言多い発言」もそうです。
このような言動をしている人は、堂々としているように見えるわりにはどこか防衛的で、必要以上に威張っていたり、強がっていたりします。また、自分の意向は通っても、その強引さのために後味の悪いことが多く、それが自分の本意でなかったことに気づき、後悔することになります。
また、攻撃的な対応をされた相手は、自分の意に反して服従させられた気持ちになり、軽く見られ、バカにされた気持ちは残っても、大切にされた感じにはなりません。その結果、傷つき、恐れて敬遠するか、同時に、怒りを感じて、復讐心を抱くかもしれません。
いずれにしても、お互いの関係は、相互尊重にはほど遠く、ギスギスしたものになりがちです。
c アサーティブな自己表現
<アサーティブ>とは、自分も相手も大切にした自己表現です。自分の人権である言論の自由のためには自ら立ち上がろうとしますが、同時に相手の言論の自由も尊重しようとする態度があります。アサーティブな発言では、自分の気持ち、考え、信念などが正直に、率直に、その場にふさわしい方法で表現されます。そして、相手が同じように発言することを奨励しようとします。
その結果としては、お互いの意見が葛藤を起こすこともあり得ると考えます。つまり、お互いが率直に話をすれば、自分の意見に相手が同意しないこともあるし、また、相手の意見に自分が賛同できるとは限らないことを知っています。むしろ、率直に話して意見や考えが一致すれば、それはラッキーだと思うのです。だから、葛藤が起こったときは、すぐさま折れて相手に譲ったり、相手が自分に同意してくれることを期待するのではなく、面倒がらずにお互いの意見を出し合って、譲ったり、譲られたりしながら、双方にとって納得のいく結論を出そうとするのです。
(中略)
さて、あなたの日ごろの言動がアサーティブであるかどうかを知るには、あなたと日常的に関係のある家族、友人、職場の上司や仲間、先生、隣人、親戚などと、どんなつき合いをしているか、思い出して、自分の気持ちに正直に耳を傾け、検討してみることです。その関係の中で、誰か特に支配的な人はいますか。誰かに対して、あなたは卑屈になったり、おべっかを使ったりしていないでしょうか。逆にあなたは誰かを利用したり、軽く扱ったりしてはいませんか。どんな状況でも、あなたは自分の気持ちをオープンに話しますか。状況によって、相手によって、自己表現が変わることはありませんか。
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