2011年11月17日

【北展】11/16〜11/20

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2011 第56回 公募展 [北展]


■開催日  11月16日(水)〜11月20日(日) AM10:00-PM5:00 (最終日はPM4:30迄)

■会 場  山形美術館 1F

■入場料  大人 500円 学生 400円  小中生 無料

■内 容  絵画・彫刻・工芸の展示


 半年早いなあ。というか今年一年も早いなあ。そして今回の秋の北展も、劇団山形の公演日と重なりました。何か関連はあるのかしら。
posted by きなり at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | おもしろいものあるよ

2011年11月16日

近況

ブログ三か月放置しました。


最近していること・・・編み物。時間さえあれば編んでます。本を読んだり書いたりは激減。特に考えたりもしてません。

最近始めたこと・・・Evernote。ほとんど写真に一言メモ。

近いうちにしたいこと・・・ご無沙汰している人に連絡。これまでとは違う形で外側と接していきたいとは思いつつ、先延ばし中。(きっと相手は許してくれるはず、と相手に甘えてるんですよ!!)


≪お知らせとお願い≫ ブログ掲載メールアドレスについて

ブログで以前公開していたyahooのメールアドレスは、現在使用しておりません。メールを送信くださった方、申し訳ありません、放置していたせいで過去のやり取りもアドレス帳データも消去されてしまいました。別のメールアドレスにて返信を送りますので、コメント欄にてメールアドレスをお知らせください(コメント欄に記入戴いたメールアドレスは非公開になります)。コメントそのものも非公開にしますので、どうぞよろしくお願いします。
posted by きなり at 18:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ

2011年08月07日

110724「オリーオリー・オックス・イン・フリー(10)」

 権力を手にすると人の見る目は歪む ――― ”特権意識”と関係の歪みについて、
 信頼関係に必要なのは「自分自身と相手を信頼し、目線を合わせて対話すること」。


 澄江がどうすればよかったのか ――― たくさんの人と接すること。

 自分に何が起きているか、彼女の側から見えることだけで知ることは、まず無理。自分自身が、他人よりも近い距離に存在することを許されているにもかかわらず、意思は拒絶され、コミュニケーションは遮断され、自ら決断する権利も放棄させられているから。
 相手の思いを話してもらいたいという澄江の再三の懇願と、彼女がどういう思いでそうしているかを、その切羽詰った様子をすっかり見せているにもかかわらず、その「なぜそんなことを要求するのか、その態度の意味がわからない」と、相手の意図を軽んじ、なぜそんな要求をされているかまったく理解できないという態度をとり、わざと慇懃無礼な物言いで彼女の行動の「非常識さ」を指摘し、ついには門前払いをする等、彼女の行動すべてを「取り合う価値のないこと」と彼女が信じ込むに足るように扱うこと、しかも「彼女の行動を最初から完全に『自分の都合に合わせて』コントロールしている」こと。

 ”澄江には俺の深淵を理解できない” ――― これが真実かどうかはまず置いて、「理解できないだろうと本人が思っているならば」、そのことにつき澄江に話すことはない。


■関係の落差について

 『関係の落差』のことを、ずっと考えていた。一方が高いところにいて、一方がそれを仰ぎ見る関係。同じ高さにいない人と、対等なコミュニケーションは取れるのか。”高いところにいる人”が、”下にいる人”に、敬意を抱くことができるならば可能、しかし、これは強制できるものでも、されるものでもない。
 「下にいる人」は、もうそれだけで、「見下ろす対象」になる。
 「上にいる人」は、もうそれだけで、「見上げる対象」になる。
 この関係において、「見下ろしている人」は、高い位置に立たされる。否応なしにそうなる。本人がいくら拒否し拒絶の意思を表示し続けても、そうなる。
 この事実を知っていないと、対話をする為に、お互いの目線を合わせる為に必須なことが抜ける。
 「見下ろすは、見下すに転じやすく、軽んじる、見下げるにも通じる」。

 落差がある関係、対等ではない関係が発生してしまうことは事実。その関係の中で、上にいる人が「相手よりも自分のほうが正しい」と考えるのも、自然なこと。


■関係の落差と、「人をどう見るか」の関係

 人を人として見れなくなってしまうこと ――― 自分と接する相手が、自分よりも価値のない存在と”見えて”しまう「見る目の歪み」、自分にとっての利用価値のあるなしでその価値を判定してしまうこと、物事の重要性を自分の側の見方のみで一方的に評定すること、そんなふうに、相手が意見を持った一人の人間だということを”見えなくさせてしまう”、自分が思うとおりに「正しく」動いていれば何の問題も起きないのにそうしない「やっかいなモノ」として見、モノとして扱うことについて、その弊害について、『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』の本はわかりやすく説明しています。

 本文から引用された本の帯の一文を引用します。
 あなたには問題がある。そのことは職場の人たちも知っているし、奥さんも知っているし、義理のお母さんも知っている。そしてご近所の人たちも知っている。問題は、君自身が知らないということだ。

『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ

 この言葉を、「自分が価値を認めている人」から言われたら、衝撃を受け、その問題が何か教えてほしいと感じるのではないかと思います。しかし「自分が価値を認めていない人」から言われたなら、先の場合より衝撃を受けることもなく、その言葉を真剣に受け止めることもないように思います。
 同じ言葉でも、誰が言うかで言葉の価値が変わります。必ず「誰の意見か」というフィルターを通過して受け取られ、それにふさわしい態度で受け止められます。
 「自分から目をそらすこと」。自分の欲求がどこからきているか、そして、それから目をそらす、逸らさせるもの ――― 他人の存在。人を人として見ない、というだけでは認識が足りない。人をモノとして見ている、人を人として見ていない状態は、相手を見る目が歪むと同時に、「自分は(あいつとは)違う」という認識になり、自分自身を見る目も歪んでいます。
 おおきな木の中のりんごの木が、擬人化されていないそのまま人間の姿をしていて、豊かで幸せそうなその姿がみすぼらしい姿になっていく過程をみて胸が痛まないのなら、その人にとり相手はモノになっています。相手の苦しみ悲しみが「どうでもいい」「関係ない」と感じるなら、それは「まやかしの高い立場」に自分を置いている証拠。まやかしの高い立場 ――― 『特権意識』。これは便利で都合がよく無敵。これをどこかで使う人は、必要に応じて至るところで利用します。

*

 自分は違う、という考え方をしている人の、その考えの根拠がわからなかった。人を踏みにじるのはいけない、人に悪意をぶつけてはいけない、それをわかっている人が、人の悲しみや思い込みによる呪縛やその害悪を憎み、それをなくそうと心を砕いている人が、なぜ「特定の条件化では人を罵り悪意をぶつけることが許される」と考えるのか、わからなかった。
 肥大した自尊心がどういうものかを理解しつつ、自分がどうなのかを検討し、自分はとり憑かれていないと結論を出し公言しているものの、他人からみればとり憑かれていると見える人がいます。なぜなのだろう、とずっと疑問だった。
 他人の落ち度は咎めるのに、自分の落ち度は落ち度と認識しないのはどうしてだろう、見た姿や状況に違いはあるけれど、こんなに同じような行動、自分が罵る相手と自分自身が同じ行動をとっていることを、なぜ気づかないのだろうと、ずっと不思議だった。
 もしくは、罵っている自分自身の姿を、相手に投影しているだけではないかという状況(そう、相手は罵られるような行動をしておらず、むしろ自分の行動こそが罵られてしかるべき状況、罵っている相手ではなく、自分自身にその罵りの言葉を浴びせたほうが適切なのではないかというほど、自分の行動が客観的に見えていない状況)にその人が陥ってしまうのは、どうしてなのだろう、と、ずっとわからずにいた。

 もう少し突き詰めると、気がついていないのではなく「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった。「あれと一緒にするな」と。私からすると「それ」と「あれ」と何が違うのか、そこを区別するのは何なのかと、更に考えた。傍目に見て同じようなものを区別するものは何か。
 『相手をどう見るか』だと最初は思っていた。だから「箱」の考え方を知り、自分の見る目を不当に歪めてしまう原因、「相手を人としてみないこと」、軽んじても構わない、軽んじられて当然の酷い人間だと相手を認識する自己欺瞞の存在、自己正当化の仕組みを納得できれば、その「偏見」は解消されるのではないかと考えた。
 でも、それでは足りない。相手をある程度まで人として見ていたとしても ――― そう、自分と同じように扱われる人間なんだと思っていても、自分が公平に扱われ尊重されるべき存在として扱われてこなかった・認識していなかったならば、相手も(自分と同じように)「状況に応じて」公平に扱われないこともある・低く扱われることもやむを得ない、という考え方になってしまう。
 また、特定の条件下では、相手を人と見つつも、軽視する(ような扱いをすることがある)ことを知った。自分をどう認識しているか、その自分がどういう態度をとっているかという自己判定に基づく自己正当化。「正しい人であろうと努力している人こそが犯しがちなあやまち」 ――― 人の心の仕組みや社会の不条理を理解しつつ、自分の中にある悪魔的な感情につき長い年月こんなに真剣に考えてきて、その結果こんなに公平で公正な振る舞いを心がけている自分が、批判されるようなことをしているわけがない、という認識。
 「事実」。誹謗中傷ですら「それは事実だから、それを言うことは間違ったことではない」という考え方、その捻じれた考えがどう間違っているか、判断がつかなかった。怒りが湧くのも、その怒りの元 ――― 正しいことが為されていないことへの憤りがあることは理解できるけれど、なぜそれが「自分の暴力的な言動を肯定する理由」になるのかがわからなかった。
 ”自分が正しくて相手が間違っているから憤っている” ――― 何を根拠に、そう思うのかが、わからなかった。たとえ事実その通りだったとしても、それが”相手を打ちのめす根拠”にはならない。なぜ「すべてをわかっているひと」が、そんなことをするのだろうと、ずっと考えていた。
――― 重大な誤りを犯し続けているからだ、間違っているとわかっていてそれを止めるどころかもてはやす奴等も重大な過ちを犯している!
 ずっと、ずっと考えていた。正しいとされている考えと批判されているその人の考えが違っていることはわかる。でもそれが、相手を踏みにじる根拠に直結している”ように見える”言動に繋がっている理由が、わからなかった。

 それが、今回現実に起きたアクシデントで、自分がその「立場」に立ったことにより、分かった。
 自分が非難される対象となり「(相手からすると)疑う余地のない正当な根拠(お前が悪いのだからお前が責任を取るのが当然だ)」により罵られる経験をし、自分を守ろうとする気持ちから相手の望む言動(建前の言動)をとり、自分の意思と裏腹に相手と対等ではない立場に自分を置き、相手からすると「私を下に置き言動すべてを支配下に置く上下関係」、私からすると「偽りの寛容により生じた偽りの庇護関係」または「支配者と被支配者の関係」、いずれにせよ「落差のある関係」 ――― そう、関係の落差から生じた「立場意識」、その固定された立ち位置から見える相手そして自分の姿と、自分の中に生じた感情によって、わかった。

 「関係の落差の認識」は、他人を操作しようとする考え方、自分には相手を操作する権利がある、という考え方を生じさせる。「自分は正しいのだからそうすることが適切だ」「自分は正しいのだから、そうされることは間違っている」という誤った考え方と、実際に自分の言動で行動を変える"べき"相手という存在により、「私が考えたとおりに"正しく"行動すべきだという『相手をコントロールすることを正当化する考え方』」が生じ、どんな人にでも、 ――― 加害者だけでなく被害者にも ――― 「相手と自分は違う=意見が食い違ったときは相手が間違っているのだから"正しく"改めるべきだ」という「特権意識が生じてしまう」、同時に「事実としての関係の落差が生じてしまう」。
 自分と相手は違うという認識は、関係の落差(立ち位置の優劣)の認識を生み、それぞれに立場固有の特権意識を持つようになり、相手を見る目や感情まで歪ませる。

*

 ふたたび澄江について。澄江が、澄江に理解できるような態度を伴って拒絶されたなら、対応は簡単なんです。澄江は何もできない無力な存在ではありません。自分のことは自分で決めることのできる、(未熟であったとしても)一人の人間です。税所が思うより、澄江は税所のことを見ていました。税所の苦悶を、見ていました。税所本人が隠していたつもりでも、それは見えてしまうんです。相手を愛し、ひたむきに切実に見つめていたなら、それはわかります。
 そして、澄江にしても、スメルジャコフにしても、未熟だとか欠陥だとかを抱えていたとしても、信頼する人には忠実で、相手が望んでいることで自らができる最大の犠牲を払った、命令されたからではではなく、”自分の判断で”。


■特権意識と正しさ

 特権意識がどのように働くか ――― 特権意識を人がどのように利用し、それを用いた人がどのような心境になり、その結果どのような言動に出るかを、私に分からせてくれたのは、DV(ドメスティック・バイオレンス)の本でした。

 DVは「人の尊厳を奪う行為」。
 DVは「怖がらせ、あやつる力」。
 DVは「相手をコントロールするための手段となる」。

 DVの原因として考えられているものとして、女性の言動というものがあります。「男性が暴力を振るうのは、女性にそれなりの原因があるからだ」という考え方です。この考え方は、「女性が男性の意に沿わないときには暴力を振るっていい」ということを前提としています。
 しかし、女性が彼の気に障るような言動を取ったからといって、彼が恋人やパートナーに暴力を振るう権利があるでしょうか。そんなことはありません。暴力を正当化できる理由は存在しないからです。暴力を振るわれて当然の人間は一人もいません。
 DVの原因は、暴力を振るった人にあります。恋人やパートナーを自分の思ったとおりにコントロールしたいという「欲求」と、そのために最も効果的な方法として、暴力を振るうことを正当化する「考え方」が本当の原因です。暴力を振るう男性は、暴力の効果について計算した上で、意識的に暴力を選択しているのです。

Q&A DVってなに?


 DVの加害者は「相手が間違ったことをしたからそれを分からせるために懲罰的な行動をとった」と考えています。「自分は正しいことをしている」、正しい自分を非難する、自分にこんなことをさせる相手の方に問題があるんだ、自分の方こそが被害者だと訴え、本心からそう考えています。加害者側の話だけを聞いた人は、相手に暴力をふるわせるようなことをした相手の方にも落ち度があったのではないか、と考えます。
 しかし、語る本人の見る目が歪んでいたら、一方の話を聞いただけでは事実がどうだったのかはわかりません。加害者の言い分だけを聞いたなら「自分こそが被害者だ」という言葉を事実として受け取る以外ありません。
 どんなことをしても、どこまででも自分を正当化し正義を主張することはできるし、話を聞いた相手にその正しさを納得させることもできます。「正しさ」は語る人により変化します。事実を知らない・知ることのできない相手に対してなら、「私は正しい」と強く言い切れば、堂々と言いきった人間の方が正しいように"見えて"しまいます。


■「正しさ」と「事実」と「相手をどう見、扱うか」の関係

 「正しくない人」(適切ではない行動を繰り返す人・考えを行動に移したときに間違ったやり方をしてしまった人)や、「(なんらかの)基準を満たさない人」を、人としてみないこと話を聴くに値しない人間と切り捨てること。
 DVが起きている関係では、どちらが正しくない行動をしたかについて、加害者被害者で正反対の認識を持ちます。本人がその考え方の問題を自覚しない限り修正できません。本人が自分で気づくしかない。
 また、相手は対等に(公平に)扱うに値しない、それは事実かもしれないし現実的にそうであったとしても、自分が、その相手に、そのレッテル(相手は間違いばかりする劣った人間だ、まともな意見の通じない人間だ、見下されて当然の人間だ)を貼った時点で、自動的に自分を「まやかしの高い位置」に置き、特権意識を持つようになってしまう。
 見下しているんじゃない、発言を吟味するに値しない、人として尊重する価値がない、”事実”そうなのだといわれたら、それが”正しい”場合、やはり事実は変えられないから、なんともしようがない。
 それは「いい/悪い」ではなく、人である限り相手がどういう人間かふるいにかけるのは自然なことで、自分にとって重要な人とそうでない人、尊重する人とする必要のない人、上に見る人下に見る人、それを判断し区別し、その評定にふさわしい態度で接するのも、自然なこと。
 正しくない人、未熟な人、自分より劣る人を尊重することは難しいこと。だから、尊重できそうにない人と接すること・距離を縮めることをしないほうがいい。その落差が真実であれ考え違いであれ、自分を高い位置に置く限り、見方は歪み、あやまちを犯す。事情によりやむなく落差の生じる相手に接しなければならない場合、そういう時こそ、普段接する人よりずっと意識的に「相手に敬意を払う」ことをしなければ、バランスがとれない。自分が正しいと疑わない状況では誰しも、権力 ――― 正しいことは権力になる ――― を振りかざすことになる。

 権力の構造、などというと大げさだけど、自分を人より上に置いたその瞬間から、見る目が歪む。必ず歪む。相手が見えていなくとも「自分が正しい」という考えを握り締めることでも同様の状態に自分を追い込む。正しいことは尊重されるべきだ。それはそうだ。ではなぜその正しいことは尊重されていないのか ――― 相手が間違っていることに気づかない愚かな人間だからだ ――― 本気でそう思うの?私にはそんな状況が「有り得ない」と思うから、その考え自体に驚愕する。
 相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ――― 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ。


*


 ヘルメルは、自分が何を誤っているかわからない。自分が正しいのだから。ノラが間違っているのだからノラが変わればいい、というのは、それはそれで間違っていないのかもしれない。ただ、それでは一生、そのまま。
 澄江が非力な犠牲者でどうすることもできなかったのだ、という考えは、間違っているわけじゃない。ただ、この見方が含んでいる「歪み」は、そうした目で見る世界すべてに適用されてくる。

 澄江も一人の人間です。無力で餌食になるしかない無力な子どもではありません。まったく未熟で親に依存しなければ生きていけない存在ではないのです。自分の意思で、それを選んだ。そうするのが最善と。しかし澄江は、税所の望みをかなえたいとは思っていても、税所がそのことをずっと悔恨し続けてほしいとは願わなかった。税所が笑ってくれることを望んでいた。税所の幸せのために自分がいない方が良いと判断した、その偏った判断を避けるのに必要だったのは、税所の本心を告げてもらうことでした。


■「正義の人」は他人を批判してはいけない

 立場の違い。正しい人は正しい。正しい人は正しくない人の話を正面から素直に受け止めることができない。「どうせ間違っているから」。その意見は「正しい」。正しいけれど、正しいならば、その「正しい人」と「間違っている人」とは、信頼関係を築けない。「まともに話を聴くに値しない人」を信頼するなんて無理なこと。
 相手が100%間違っていて、本当に、心底どうしようもない人で、「その人の話は聴くに値しない」、「ほかの人のように扱う価値がない」 ”あなたにはわからないかもしれないけれど”――― その考え方、間違いです。それ、主観でしかないもの。
 ずっと、わからなかったのは、その言葉が「間違いであるのに、自分でも間違っていると感じているのに、きっと正しいはずだと思い込んでいた」から。私の思い込み、考え方の歪みがそれが間違いだと断定できなかった理由のひとつです。
 行動がとんでもなく間違っている人がいたとしても、その人を罰してもよいということにはならない。相手の行動と対立する意見、批判的なことを言う”必要がある”ならば、必ず「相手は自分と同じように、喜怒哀楽の感情を持ち、周囲には多くの人がいて、その人がそれまで一定の年月をかけて築いてきた社会的な地位や立場、数々の功績や失敗がある、一人の人間であること」に、敬意を払い、人として相手を見据え、相手と向き合った状態で、その人の言動の何が”自分の考える正しさ”と相容れないかを指摘する必要がある。
 その上で、対応策(批判の目的 ――― 間違いの修正や改善案)を明言する必要がある。そうでないと、 ――― ただ自分の思い通りにならないことの鬱憤を晴らすための誹謗中傷になる。事実がそうでないとしても、”そう見えてしまう”。

 「自分は正しい」は、特権意識につながる。正義を押し通す理由も「正しいのだから」では理由にならない。正しいのにないがしろにされているなら(正しくないことが正しいこととして通用しているなら)、その正しくないと考えられることが、正しくないにもかかわらずまかり通っているのはなぜかをきちんと把握し、その原因に直接関わっている人に向き合い、事実を確認し、自分の意見を伝え、間違いが解消されるよう働きかけること、必要なのはただそれだけ。自分から見て正しくないことが正しいとして通っているなら、違う人からするとそれを「正しいと判断する理由」があるのだから。
 本当の正しさが何かを知っているのなら、間違った判断をしてしまった人を「正しい判断に導くこと ――― きちんと相手が自分で正しい判断できるように事実を提示すること」を、してもよいし、しなくてもいい。それは「自分の意思で、自分の権利を行使して行うこと」。義務じゃない。その際も、相手の人格や人間性(自分の主観から見える姿)を非難すること、相手にレッテルを貼り見下す態度を取ることは、相手を防衛的にさせ対立を激化させ問題解決を困難にさせるだけ。それをわかった上での誹謗中傷なら、ただ個人の感情の発露でしかなく、そこで正義を名乗ると欺瞞になる。
 本当に、本当に「状況の改善」を望むならば、 ――― 相手に敬意を払い、対等な立場で、相手に意見を伝えなければ。それができない人に、人を批判する権利などない。
 批判は、きちんと意見が交わされる土台があってこそ成り立つ。「正しい」自分の立場を固持し、一方的に「間違った」相手を批判したら、ただの誹謗中傷に成り下がる。双方通行の環境(対話の土台)がない場合は、それを作ることも平行して行わなければ、「いかに意見が正しくとも」一方的な暴力でしかない。
 批判するならば、批判するのは「間違った言動」に対して行われるべき。「間違った行動をした人」はあくまで「間違った行動をしてしまった人」であり、「間違った人間」ではありません。「間違った人間」を「間違った人間(=悪人)」として固定した目で見、自分の考える正しさ通りに行動することを求め糾弾したならば、それは偏見による差別または私怨による権力の濫用でしかなくなります。


■正しい人とは信頼関係を構築できない

 私は、お互いに相手の幸せを喜べる関係が、よい人間関係だと思う。仕事であれプライベートであれ直接の接触のないインターネット上で意見を交換し合う人であれ一見限りの接点の人であれ。しかしそれも、私の考え方であり、すべての人がこの考え方である必要はなく、また、この考えに異論がある人と私とは、信頼関係を築くことができないけれど、それは”しょうがない”こと。その人と私との間に築ける最良の関係は、相手の信条を傷つけない、お互いが不快でない距離をとること。私は相手が傷つくのが嫌だ。相手はもちろん自分も苦しい、そして相手から信頼を得ていない自分には、相手の傷を治すために何をすることも叶わない。
 失った信頼を回復するのは困難です。だから、信頼関係を築くことができなくとも、相手に、二度と顔も見たくないなどという感情を抱かせないように、相手を尊重した上で、適切な距離を保ちたい。それと同時に、私を罵り踏みにじることを正当化する人 ――― 私を人として扱うことが困難な人、私の欠陥のせいであっても、相手の心の問題であっても、どんな事情があろうとも ――― に、深入りしないこと。私はその人にとり「必要ではない」のだから。私を攻撃することで相手も私も苦しむ(こともある)、攻撃された私自身も苦しむ、私を大切に思う人も苦しい思いをする。関係を続けることが、誰の幸せにもならない関係もある。

 今の私では、私を人として尊重できる人 ――― 立ち位置を同じくすることを当然と考え、私の意見に耳を傾け、私に本心を話すことのできる人、そして当然に、私自身も相手を人として尊重し、相手の意見に耳を傾けたい、本心を話してほしいと望む人 ――― 一人の人間として尊敬でき、自分と違う意見を持っていることが当然であり、しかしそれは自分の意見と同じように尊重される価値のあるものと考えている、それぞれ出来ることや能力は違っていても対等の立場でありたいと、双方通行でこの考えを持っている人としか、信頼関係を築くことができない。
 私を人として尊重できない人に私を攻撃させないこと。私自身を大切に思ってくれる人の目に、私を傷つける人との接触により私が消耗し打ちのめされていく姿は、どう映るのか。私は、私を(が)必要としない人よりも、私を(が)必要とする人を大切にしたい。自分を守れない人に、自分を守ることに無関心な人に、自分なんてどうなってもいいと捨て身になれる人に言います ――― あなたが”どうにか”なってしまったとき、誰がその身を挺してでも守りたかった何かを守るの?自分自身を大切に扱えない人に、大切な何かなんか守れない。



■「お互いが本当のことを話す」 ─── 信頼関係はここから。

 物語にせよ現実にせよ、他人の気持ちは表面に現れた言動からその動機(心情)を推測するしかない。それは相手の真意と必ずしも一致しない。必ず推測する人のフィルターを通して解釈されるのだから。本当の気持ちが、本当の動機が、本当の目的が何なのかは、推測するより本人自身から本心を話してもらうのが一番いい。

 見えるのは、実際の言動のみ。どう見せたいか(どう見られたいか)というより、本当のことを言わないと、本当のことは伝わらない。接するすべての人に(全世界に!)、というのは難しいけれど、自分が大切にしたい人には、大切にしたい人だけには、きちんと”本当の姿”を見せたほうがいいなと、そう思います。



 長いあいだお付き合い戴き、ありがとうございました。

参考書籍について

2011年07月31日

魅惑の差し入れ


 休日出勤。モスのチキンナゲットとポテトを差し入れで戴いた。
 持参した昼食はおかゆ。
 久々の揚げ物、おいしそうだが午後から仕事にならなくなるかも、と思いつつも……

2011年07月29日

カクランつづき

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 記事、先週の土日で書き終えてはいたのですが、文章があまりにもひどい上に意味もわかりにくいので、投稿を先延ばし中です。

 大雨と真夏日の繰り返しのせいか、夏バテみたいな状態です。脱水症状かなあ。月末なのに会社も休んじゃったので、無理ない程度に土日働きまっす。

 すみません、また来週に。

2011年07月18日

また先延ばし

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 なにか変なパンダ発見。なにが変なんだろ。

 三連休でした。出かけたり情報もらったり。
 二日は作業に充ててたのに今週末もまとめ終わりませんでした。
 合間に地獄篇三部作再読。

2011年07月11日

本当に伝えたいことが相手に伝わっていますか?─── 『アサーション・トレーニング』(3)




 引き続き、平木典子さんの「アサーション・トレーニング」から引用します。

■自分の判断を決めることと、その責任(扱い方)について、自分の決定を表現すること・しないことについて。


アサーション権U
 
 私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分の行動を決め、それを表現し、その結果に責任をもつ権利がある。

 この人権は、要約すると、あなたは自分自身についての最終的判断権をもっているということです。あなたは、自分がどんなふうに感じ、どう考え、どんな行動をとるかについて、決めたり、判断したりしてよいのであり、その結果について、責任をとることができるのです。分かりやすくするために、少し極端な言い方をすれば、他人がどう思おうと、あなたの感じ方や考え方はあなたのものであり、他人と同じ感じ方や考え方をしなければならないということはありません。また、それを主張する権利も、変える権利もあなたにあるということです。
 したがって、逆に、他者も自分の行動を決める権利をもっていますので、あなたは他人を変えることはできないということです。ある有名なアメリカの心理療法家で、「交流分析」という考え方と方法を開発したE・バーンという人は、「過去と他人は変えられない」と言ったそうですが、この事実は、あなたにも相手にも当てはまります。
 たとえば、今日は仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って、家族と団欒の一時を過ごそうと思っていたとします。ところが同僚に、一杯飲んで帰ろうと声をかけられました。「今日は、帰りたい」と言ったのですが、さらに「ちょっとぐらい、いいじゃないか」と誘われました。そんなとき、あなたはどうしますか。また、行動を決定した後、そのことについて後悔したり、後味の悪い思いをしませんか。
 よくあることは、しつこく誘われて、相手に押し切られた形になって仕方なく一緒に行ってしまうのですが、行きたくなかったのに、家族に何と言いわけをしよう、などといつまでもくよくよしてしまうことです。もうひとつよくあることは、家族に約束したので仕方がないと同僚に言いわけをして誘いを断り、その結果、断って気を悪くしたかなとか、家族と変な約束をしなければよかったなどと、人を気にたり、家族を恨んだりするやり方です。
 いずれにしても、このような後悔は自分の決断に責任を取っていないことになります。相手がしつこく誘おうと、そうでなかろうと、一緒に行こうと決心したのであれば、それはあなたが決めたことであり、「行く」と決めた瞬間に、その行動の責任はあなたが取ればよいことになるのです。つまり「行く」と決めたのはあなたなのですから、行きたくなかったのにと相手に責任を被せることはできないのです。さらに、「行く」ことにしたのであれば、そう決めたあなたの気持ちを家族に理解してもらうのもあなたの責任であり、家族に恨まれることを含めて覚悟するのもあなたの責任です。
 同僚に断ったときも同じことです。もし、家族との約束を守ろうと決心し、誘いを断ったのならば、それはあなたの決めたことで、家族の責任ではありません。その結果、同僚に悪く思われることを覚悟するのもあなたの責任においてすればいいのです。
(中略)
 相手ができないから、あなたにやってもらいたいと思っているからという理由だけで、あなたがそれをしなければならないということはありません。あなたがしようと思えばやればいいし、自分で決めたのですから、できる限りでそのことに責任を取ればいいのです。自分で決めたことですから、責任は取らなければならないのではなく、取れるのです。
 自分で決めて、行動しておきながら、それが相手の希望をかなえることであったりする場合、相手のせいでそうなったと考えるとするならば、それは自分の決定権、判断権を放棄しているのであり、自分の決めたことを他者の責任にしようとする操作的で、甘えた生き方です。自分で決め、そのことに責任をとる権利は、他者から押しつけられた義務としてではなく、自分のものとして行使したいものです。

『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所



■自分が欲求を控えめに表現することと、他人にその態度を要求すること。


 子どもの中には、たとえば、欲しいおもちゃをねだらない子、小遣いが余計にいるときでも決して言わない子、行きたいところ、買いたいものなど自分の意見や欲求、気持ちを述べない子がします。そんな子どもは、おそらく親に自分の欲求を言ってはならないとか、親の権威には逆らえないとか、自分の希望は親によって決められる、といった体験があるのです。このような子どもは、自己表現を躊躇したり、控え目にしたりするために、分かってもらえず、一方で、「いい子」とされて、だんだん欲求や希望をもつことをあきらめる習慣がついていきます。欲求を意識すると自分の中に欲求不満がたまるので、そんな希望はもたないようにし、長じて(3)の考え方(自分の欲求や希望を言うときは、控え目にするべき)を自己の行動基準にしてしまうのです。

 そして、その考え方は、往々にして、自分が権威者になったとき、自分が親になったときに、目下の者、子どもに向かって適応されるのです。つまり、目下の者や子どもには控え目に欲求を出すべきだと押さえ込みたくなるのです。権威に弱い人に限って、権威的な言動をするのをよく見かけますが、それはこのようなメカニズムによって起こっているのです。
(同上)




■混乱するほうがおかしい?わかりにくい意思表明。 


 感情表現の第二のポイントは、言っていることとやっていることを不一致にしないということです。ニコニコ笑顔をして「腹が立った」と言われても、嬉しいのか腹が立っているのか相手には分かりません。相手は、どう受け取ったらいいか分からないため、どう応えたらいいか戸惑うでしょう。このようなとき、アサーティブな人であれば「どちらを伝えたいのですか?」と訊くでしょうが、往々にして多くの人は、必死にどちらかを察して応えようとしてしまうものです。まして、弱い立場にいる人(たとえば子どもとか部下など)が、このメッセージをもらい続けると、常に判断に窮する状況におかれるため、脅威を感じたり、懲らしめられている気持ちになる可能性も出てきます。

 このような、言っていること(言語表現)とそれにともなう非言語表現とが不一致な表現を「二重拘束的な表現」といいます。相手を二つの矛盾したメッセージによる拘束状態におき、相手を身動きできないようにしてしまうという意味です。
 皮肉、棘のある優しい言葉、ふくれ面をしながら「いいですよ」と言うなどは、二重拘束のメッセージの例です。往々にして非主張的な人の表現は、二重拘束的になりがちです。
 また、攻撃的な人の発するメッセージの中には、表現全体として矛盾している場合があります。とえば、「自由にしなさい」とか、「人には頼らないで、自分でやりなさい」というメッセージです。言っていることの内容は「自由を許し」、「自立を促し」ているようです。しかし、その言い方は命令的です。つまり「自由」や「自立」を命令していることになるので、その人の元では、たとえ、自由にしたり、頼らなかったりしても、その人の命令に従っていることになってしまうという矛盾が生じるのです。このようなメッセージに対しては、命令した人の枠を越えて自由になったり、自立したりはできないことになってしまいます。
(同上)



 伝えたいことと、伝わることには、ズレが生じます。

 自分が伝えたいことを、相手に適切に受け取ってもらうため、自分の側にある伝えたいことを伝える方法や、伝えたいことを阻む要因・歪んで伝わってしまう要素を取り除くことを、ずっと模索してきました。今の結論は、伝える技術がどうこうより、素直に自分の考えを話すことが、もっとも適切ではないかと思っています。
 伝えあう、対話を成立させるには、「相手の意見をお互いが聞き、確認し、受け取りながら意見を交わすこと」が必須なので、相手の真意をいちいち確認しなければ、いくら誠実に振舞った"つもり"でいても、まったくの独善になってしまうのだけれど。
 意思が伝わったとしても、それをどう扱うは相手の問題なので、そこは操作できません。はい、わかってます。だいじょうぶです。自分に出来ることは「真摯に自分の意思を伝えること」、ただそれだけです。


*


 アサーション・トレーニングの本の紹介はこの記事で終わりです。
 ここまでの記事は、私自身がここで引用したこれらのことを承知の上で書いてきました。次に書く記事も、これらをわかった上で書きます。急きょ本の紹介記事を挟みましたが、こちらの意思開示の一部として読んでもらえたらうれしいです。


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 パイナップルの砂糖漬けにつき語るリーザのことが、何度も何度も頭をかすめる。「自分が、自分が望んで望んで手に入れた幸せを満喫する間、罪もない人、まったく罪のない子供が、まったくいわれのない罪により罰せられる、その瞬間にも、その状況を目にしていてさえも、自分の幸せを優先してしまうエゴイストであることを、自嘲的に語る。純真無垢に幸せを享受するのではない、自分が得ている幸せを放り出して苦難の人を救うのでもなく、自分の幸せを優先させるであろう自分、わかった上でそうしてしまう可能性と、その恐れをさらけ出して見せること、そんな屈折した姿を、自分の尊敬する人の前に出して見せること。なぜならそれは、その人自身の姿と、自分とが、重なって見えるから。その屈折の加減がわからない人にそんなことを言ったりしない。


 昨年の7月10日に、上のメモを書きつけていました。さて、前回に引き続き今回も、伝わっているのかいないのか、厄介事として嫌悪されているのか、特に気にかけることでもないと読み流されているのか、なんらか考える材料として扱ってもらえているのか、、、、いったいどんな思いでもって聞いてもらっているのか、ほんとうにさっぱり判断できない状況に陥っている私の「一方的な自己表現」ですが、あと少しだけお付き合いをお願いします。




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2009年発行の改訂版もあります。


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2011年07月10日

感情は出来事が引き起こすのではない─── 『アサーション・トレーニング』(2)




 引き続き、平木典子さんの「アサーション・トレーニング」から引用します。

 アサーションに必要な考え方につき、アルバート・エリスの論理療法の説明を通して、いかなる感情も自分自身が作り出していることへの理解を求めます。

 人の言動のもとになるものの見方、考え方の問題点を指摘し、自己成長と人間関係のあり方に大きな影響を与え、貢献した人は、「論理療法」の創唱者A・エリスてす。エリスは、「感情は考え方に対する反応であり、考えは状況に対する反応だ」と述べています。エリスによると、感情は、何らかの状況や出来事に対して抱いたり、状況から引き起こされる反応であるかのように思われているけれども、そうではないと言うのです。つまり、感情は、実はものごとそのものへの直接の感情ということはなく、ものごとを人がどう受け止めたかによって引き起こされるというわけです。いい換えれば、私たちはものごとの受け止め方、ものの見方についてある特定のルールを持っており、そのルールによってものごとを受け止めた結果、ある感情が生まれるというわけです。
 エリスの理論は「A-B-C-D理論」とも呼ばれ、英語の語呂合わせを楽しみながら次のように説明されています。

A (Activating event)=ものごとを引き起こすような出来事
B (Belief)=信念、思い込み
C (Consequence)=結果、問題、悩み、症状など
D (Dispute)=論破、論駁

「A-B-C-D理論」でエリスの考え方を説明すると、私たちは、問題や悩み(C)が、それを引き起こすような出来事(A)によって引き起こされると考えがちだが、実はAをどんな考え方で受け止めたか(B)の影響で、Cは引き起こされているということになります。つまり、問題や悩みの起こるプロセスは、A→Cではなく、A→B→Cなのです。
 例をあげましょう。誰かがあなたを嫌いだと言った(A)ので、あなたが落ち込んだ(C)としましょう。一般的には、嫌われたので落ち込んだ(A→C)と考えますが、エリスは、嫌われた、ということは落ち込むような出来事である、だから落ち込む(A→B→C)というプロセスになっているというわけです。
 ただし、Bには、合理的な思い込みと非合理的な思い込みがあります。そして、特に非合理的な思い込みは、現実的ではなく、その結果、問題や悩みがつくられやすくなります。
 右の例で、嫌われた(A)、ということは残念だが、それも仕方がない(B)、となれば、それほど落ち込まない(C)でしょう。考え方がアサーティブであれば、ものごとは現実的、生産的に受け止められ、その結果、言動がアサーティブになっていくのです。
 もし、非現実的、非合理的な思い込みを挿入してものごとを受け止めていると、結果(C)は非現実的、非合理的なものになります。エリスは、そんなことにならないように、非合理的思い込みを合理的なものに変えることを勧めます。しかし、その思い込みは誰かとのかかわりの中で体験されたり、言われたり、学んだりしたこと、自分の体験の中から作り出されたことなど、長年の生活の積み重ねによってつくられ、繰り返され、社会によっても強化されているので、簡単に変えることは困難です。そこでそれを変える助けをするには、その考えがいかに非現実的、非生産的であるかを説いて、論破・論駁(D)する必要があると言っています。理性を駆使して、そのような考えを止める努力をするわけです。

『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所


 感情は、出来事(対外的なもの)によって生じるのではなく、出来事をきっかけに、自分の考え方(信念による出来事の解釈)のフィルターを通過したことにより生じている、だから、考え方を変えれば起きる感情を変えることも出来る、という考え方です。
 この理論を土台に、感情を適切に取り扱い、アサーティブに表現することを勧めます。


 感情を表現しようとするとき、心得ておくと助けになる事実は、「感情はまぎれもなく自分のもの」であり、自分の責任で表現できるものだということです。それは次のような例をとってみればわかるでしょう。
 たとえば、誰かが大きな音を立ててギターを弾いていたとしましょう。それを聞いて、「うるさい!」と不愉快になる人もいれば、「すごい!」と聴き入る人もいるのです。つまり、あることに対する感情は、自分が起こしているのであって、ギターを弾いている人が起こしているのではありません。確かに、ギターの音は自分のある感情を引き起こすきっかけにはなったのですが、それに対してどのような感情をもつかは自分が決めているのです。

(同上)


 怒りを感じた時、適切に取り扱うことは特に大切です。

 先に述べたように、怒りは、外界の出来事や周囲の人の言動がきっかけになって起こります。そのため、周囲のせいで怒らせられたと思いがちですが、実は、自分が自分を怒らせているのです。怒りの感情は不快ですから、それを自分が起こしているはずはないと考えたくなるのかもしれませんし、怒りのきっかけをつくったものや人に責任を転嫁したくなって、「あなたの話を聞いているとイライラさせられる」とか「私を怒らせないで!」とか「そんなことをするから、怒るんでしょ」と言うのかもしれません。
 しかし、これまで何度か説明しているように、怒りは人間のもつ自然な感情で、誰もがもち得る当たり前の感情です。もし、不快だからもちたくないと思っても、もたないですますことはできないでしょう。
(中略)
 まず、大切なことは、自分が怒りを感じていることに気づき、認めることです。そして、それはほかならぬ自分が起こしていること、したがって非難すべき人は誰もいないことを確認するのです。先にもいく度か述べたように、怒りは他者の言動がきっかけで起こっているかもしれませんが、自分がそれを気に入らなかったり、不満に感じるときに起こる気持ちです。したがって、怒りを感じたら、自分が怒りの所有者であることを認め、だから自分でどうにかできると考えましょう。
(同上)


 「出来事にどう反応するかを決めているのは自分」であることを意識していないと、自分の気分(怒りや憂鬱)の責任を相手に転嫁し、"自分は被害者"的な言動をしてしまうことに繋がります。

 また、「出来事に対する反応は、自分の考え方が土台にあり、その解釈によって自分の感情が生じ、その結果どう反応するかを自分で判断して決定し、自分の意思で行動している」、この一連の作業を自分自身が主体的に行っていることを自覚していないと、接した相手から「自分の行動に責任を持たない(責任を取る気のない)無責任な人間」と"見られて"しまうことも、あるのではないでしょうか。

*

 論理療法について。去年、アルバート・エリスの「神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法」を読んだ時、自分のつきものがたくさん落ちました。自分には序文からして有益で、いちいち文章を自分に適用して立ち止まりながら読み進めたので、なかなか最後までたどり着けませんでした。読む上でのポイントは「神経症的な人との接触により直面させられる、自分自身が持つ神経症的傾向をどう扱うか」という「意見を受け取る上での態度」ではないかと。

 突っ込みが細かくて面白い序文から引用します。

 コージブスキーは『科学と正気』という彼の有名な著書の中で、「アイデンティティ(あるものが何であるか)を表す『is』(である)」に文句をつけている。私たちが「Aは怠けている」というときは、「Aは朝起きない」とか、「Aは朝起きるのを拒否している」という記述的文章とは、まったく違う意味になるというのが彼の主張である。「Aは怠けている」という文章は、意味が如何ようにもとれる。つまり、さまざまな抽象段階が考えられる。たとえば、「Aは朝ときどき起きない」という意味かもしれないし、「Aは朝めったに起きない」ということかもしれない。また「Aは朝は早く起きるのだが、シャワーを浴びるのに時間がかかる」ということかもしれない。あるいは「Aは朝わざと遅く起きる」ということもあるだろうし、「Aは朝早く起きようと努力はしているが、自分の意志の反してまた眠ってしまう」ということもあろう。「Aは怠けている」という文章記述は、Aは如何なる状況でも常にものごとを遅くしたり、何もしなかったりすることを意味しているように思われる。だが、常に怠けるということがあり得るだろうか? もちろん普通はあり得ない。しかしながら、私たちはこのように如何ようにもとれる文章を絶えず用いている。
(中略)
 技術的には私は正しい。しかもコージブスキーより、ときにはボーランドよりもいい線までいった。というのは彼らは「私たちはAを神経症者とよぶことができる」といっているが、これはやや正確性を欠く使い方だからである。彼らは「である」から脱却したものの、それにはAにレッテルをきちんと貼れるという含みがある。しかしレッテルは貼れない! コージブスキーの哲学の本質は、すべてのものは変化するという考え方だからである。それゆえ、バラは赤「である」とはいえない。なぜなら、それはやがて黒くなるかもしれないし、他の色に変色するかもしれないからである。それはバラ「である」とさえいえないのかもしれない。なぜなら、それは埃になるかもしれないし、他の要素に変わるかもしれないからである。同様にAも<神経症者>「である」といえない。なぜなら彼の神経症は変わるかもしれないからである。つまり神経症の症状は消えることもありうる。また好転するかもしれないし、悪化するかもしれない。しかし、コージブスキーやボーランドが「である」回避法で主張するようないい方は、つまり「私はAを神経症者として分類する」とか「私はAを神経症者としてみる」といういい方は、少なくとも技術的にはまだ正確とはいえない。あまりにも一般的で、あまりにも統括的である。したがって、むしろこういった方がよい。「私はAを時間の流れの中のある瞬間、神経症者であると識別する。ということは、彼は神経症的にまったく行動しない時もあるが、大体は神経症であることを知っているということである。また彼の神経症的な行動が変わることもありうるし、神経症の症状が少なくなることもある。あるいは将来まったく神経症でなくなるかもしれない」と。

『神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法』 アルバート・エリス / 國分康孝 監訳 川島書店


 この序文では「である」を回避するための考え方についてとことん説明してくれます。ここだけでもこの本を読む価値があると思いました。レッテルに対するわかりやすい説明も納得させてもらいました。
 しかし本文は、当然にすごかった。通して読むと「とても役に立つ一冊」だと思います。こちらもぜひ読んでみてください。"読むべきだとは言いませんが、読んで欲しいなとは思います" 



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2009年発行の改訂版もあります。


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2011年07月09日

三つの対人関係の持ち方 ─── 『アサーション・トレーニング』(1)

 「建前」を恐れること。

 恫喝は、怖くない。罵りも、怖くない。それらは相手の感情が見えるから。
 本当に怖いのは、自分に見せられている姿が偽りである状況、反転が多く何を信じてよいのかわからない状況、何も知らされない状況。
 事実がどうなっているのか見えていないと、適切な行動も見えない。


 新卒で入った会社は、みな普通程度に「大人」だったので、内心思うことはあっても「きちんと」対応し、大きな衝突が表立つことはありませんでした。手の内を見せても大丈夫な相手と飲みに行ったりした時などは状況が違っていたのかもしれませんが、みな社交辞令の振舞いを当然と、どんな相手にも笑顔を向けていたように記憶しています。
 しかし、女子更衣室はドア一枚で隔てただけなのに異空間で、華やかな笑顔や思いやりの言葉の裏にある思いを聞くにつれ、表面の言動をそのまま受け取ってはいけないのだと知りました。
 相手の言葉を真に受けるのは馬鹿だ、本音は聞かされる相手の迷惑になる、個人的な話を又聞きしても知らないふりを通すべき、「和やかな関係」を保つための暗黙のルールを学ぶにつれ、私自身、本心を言わないようになりました。

 そんな私が購入し、蛍光ペンでたくさん線を引いていた本があります。「表面的には問題が起きていない浅い付き合い」への反抗だったのかもしれません。
 今になって読み返して、ようやく著者の意図を理解できた記述も多々あり、「表面は和やかな浅い関係」ではない関係を望む人、「意思を伝えたい人・意思を伝えてもらいたい人」には読んで欲しいと思ったので、抜粋記事を掲載します。




 平木典子さんの「アサーション・トレーニング」。人間関係の持ち方、自分の意見の表現の仕方について。


 あるアメリカの心理学者は、人間関係のもち方には、大きく分けて三つのタイプがあると言っています。「第一は、自分のことだけ考えて、他者を踏みにじるやり方、第二は、自分よりも他者を常に優先し、自分のことを後回しにするやり方、第三は、第一と第二のやり方の黄金率ともいうべきもので、自分のことをまず考えるが、他者をも配慮するやり方」です。
 アサーションとは、この三種類の対人関係のもち方の中では、第三のやり方をいいます。そして、私の実施している「アサーション<自己表現>トレーニング」では、第一のやり方のことを「攻撃的」または「アグレッシブ」、第二のやり方のことを「非主張的」または「ノン・アサーティブ」、第三のやり方を「アサーティブ」と呼びます。


a 非主張的自己表現

<非主張的>とは、自分の気持ちや考え、信念を表現しなかったり、しそこなったりすることで、自分から自分の言論の自由(人権)を踏みにじっているような言動をいいます。これには、自分の気持ちや考えを言わないだけではなく、あいまいな言い方をしたり、言いわけがましく言ったり、他人に無視されやすい消極的な態度や小さな声で言うことも含まれます。このような言い方は、一見、相手を立てているようだったり、相手に配慮しているようにみられますが、暗に「私の気持ちや考え、言っていることは取るに足りません 無視しても結構です」と伝えているようなもので、自分の気持ちに不正直で、もちろん、相手に対しても率直ではありません。非主張的な言動をしているときは、相手に譲ってあげているように見えながら、自信がなく、不安が高く、それを隠して卑屈な気持ちになっていることが多いものです。 
 したがって、非主張的な言動をした後は、「自分はやっぱりダメだ」といった劣等感や、「どうせ言っても分かってもらえないに決まっている」といったあきらめの気持ちがつきまといます。また、相手に対しては、「譲ってあげたんだ」といった恩着せがましい気持ちや、「人の気も知らないで」といった恨みがましい気持ちが残ります。もし本当に相手を配慮し、尊重して相手に同意したり、譲ったりした場合は、自分の決断でそうしているので、気持ちはさわやかで、未練は残らないはずです。非主張的な言動の後では、分かってもらえなかったと思う気持ちや傷ついた感じが残りがちなので、惨めになります。そもそも自己表現してないわけなので、相手に分かってもらおうと期待することは欲ばりなのですが、つい「黙って引いてあげたのに」とか、「相手を立てたのに分かってくれない」といった甘えや、「思いやりのない人だ」とか、「鈍感な人だ」といった相手への軽蔑の気持ちをもったりもします。
 このようにして我慢や恨みが積み重なると、欲求不満や怒りがたまり、人とつき合うのがおっくうになったり、頭痛、肩こり、神経症の胃痛などの心身症やうつ状態になります。また、弱い立場の相手に対しては、不当に八つ当たりをしたり、意地悪をしたりすることにもなりかねません。本人自身はていねいに優しくしているつもりでも、生き生きした感じはなく、無表情で、慇懃無礼な振舞いをしていたりします。
 一方、非主張的な対応をされた相手も、結果的に被害を被ります。まず、あなたが同意してくれれば自分と同意見、譲ってくれたときはあなたを思いやりのある人だとありがたく思うのが普通です。あなたの真意は表現されていないわけですから、よほどあなたの言っていることに猜疑心のある人でない限り、それが素直な反応です。ところが、その結果、後で恨まれたり、軽蔑されるのではたまったものではありません。また、優先されてばかりいると、あなたに対して優越感や憐れみの気持ちをもったり、逆に従わせてしまったという罪悪感や苛立ちを感ずるかもしれません。


b 攻撃的自己表現

<攻撃的>とは、自分の意見や考え、気持ちをはっきり言うことで、自分の言論の自由を守り、自分の人権のために自ら立ちあがって、自己主張してはいるのですが、相手の言い分や気持ちを無視、または軽視して、結果的に、相手に自分を押し付ける言動をいいます。
 したがって、それは、相手の犠牲の上に立った自己表現・自己主張であり、自分の言い分は通っても、相手の気持ちを害したり、相手を不必要に支配したりすることになります。
 このような言動をしている人は、一見、表現豊かで、ハキハキものを言っているように見えますが、相手を配慮しないで自分のことだけを主張しているわけなので、結局、相手を踏みにじっていることになります。そこには、「自分が一番」とか「あなたはダメ」といった、その場の主導権を握り、相手より優位に立とうとする態度や、「勝ち負け」でものごとを決めようとする姿勢が見え隠れして、自分に不正直ともいえます。
 つまり、攻撃的とは、たんに暴力的に相手を責めたり、大声でどなったりするだけではなく、相手の気持ちや欲求を無視して、自分勝手な言動をとったり、巧妙に自分の欲求を相手に押し付けたり、相手を操作して自分の思い通りに動かそうとしたりすることをいいます。もちろん、不当な非難、侮辱、皮肉、八つ当たりなども含まれます。また、雑談や何気ない会話をしているときの「だめ押し」や「一言多い発言」もそうです。
 このような言動をしている人は、堂々としているように見えるわりにはどこか防衛的で、必要以上に威張っていたり、強がっていたりします。また、自分の意向は通っても、その強引さのために後味の悪いことが多く、それが自分の本意でなかったことに気づき、後悔することになります。
 また、攻撃的な対応をされた相手は、自分の意に反して服従させられた気持ちになり、軽く見られ、バカにされた気持ちは残っても、大切にされた感じにはなりません。その結果、傷つき、恐れて敬遠するか、同時に、怒りを感じて、復讐心を抱くかもしれません。
 いずれにしても、お互いの関係は、相互尊重にはほど遠く、ギスギスしたものになりがちです。


c アサーティブな自己表現

<アサーティブ>とは、自分も相手も大切にした自己表現です。自分の人権である言論の自由のためには自ら立ち上がろうとしますが、同時に相手の言論の自由も尊重しようとする態度があります。アサーティブな発言では、自分の気持ち、考え、信念などが正直に、率直に、その場にふさわしい方法で表現されます。そして、相手が同じように発言することを奨励しようとします。
 その結果としては、お互いの意見が葛藤を起こすこともあり得ると考えます。つまり、お互いが率直に話をすれば、自分の意見に相手が同意しないこともあるし、また、相手の意見に自分が賛同できるとは限らないことを知っています。むしろ、率直に話して意見や考えが一致すれば、それはラッキーだと思うのです。だから、葛藤が起こったときは、すぐさま折れて相手に譲ったり、相手が自分に同意してくれることを期待するのではなく、面倒がらずにお互いの意見を出し合って、譲ったり、譲られたりしながら、双方にとって納得のいく結論を出そうとするのです。
(中略)
 さて、あなたの日ごろの言動がアサーティブであるかどうかを知るには、あなたと日常的に関係のある家族、友人、職場の上司や仲間、先生、隣人、親戚などと、どんなつき合いをしているか、思い出して、自分の気持ちに正直に耳を傾け、検討してみることです。その関係の中で、誰か特に支配的な人はいますか。誰かに対して、あなたは卑屈になったり、おべっかを使ったりしていないでしょうか。逆にあなたは誰かを利用したり、軽く扱ったりしてはいませんか。どんな状況でも、あなたは自分の気持ちをオープンに話しますか。状況によって、相手によって、自己表現が変わることはありませんか。



 これ以降にも、自己主張すること・しないことと、その考え方について有効な記述がたくさんあるので、引き続きこの本の抜粋記事を掲載します。




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posted by きなり at 01:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んで欲しい本

2011年07月05日

 すみません足踏み中


 次は来週以降になります。
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