2009年11月07日

Goodbye, our pastel badges



 フリッパーズギターで有名な曲と言ったら、2ndアルバム収録の「恋とマシンガン」。
 この映像を見たのは十数年ぶり。カメラフィルムの動き、パリの街を早送りで歩く、市街バスの後ろでギターを弾く、屋上のセピア色、今でも好きだと感じる空気。いつのまにか画面の中の彼らより年上になってしまった。




 去年、謎の占いで「自分のテーマソング」と提示された「さようならパステルズ・バッヂ」。電車内の通路をギターを掻き鳴らしながら通り抜けていく。彼らの1stはすべて英語歌詞。単語の意味もわからないくせに音だけでよく歌っていました。



 そして、私がこれまで今まで一番繰り返し聴いたCDは、彼らの三枚目にして最後のアルバムなのだと思う。未だに曲タイトルも歌詞もうろ覚え。つかみどころのない、ぼんやりした、不思議な空気を満たした一枚。

 現在の彼らには特に関心がなく、また、彼らを「追いかける」という感覚を抱き続けるのは、青春期の一時的なものだと思っていたけれど、何というわけでもなく、今も当時と同じように聴き続けていて、その距離がずっと変わらないので、これからもそうなのだと思う。だから何というわけでもないけれど。

posted by きなり at 03:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 好きな物たち

2009年10月31日

朗読「花のレクイエム・萩」

 辻邦生さんの短篇集「花のレクイエム」から、十月・萩の朗読です。
 単行本4ページの物語で、長さは五分半程度です。

 (音量注意・音が普通に拾えているのでこれまでの録音より大きく聞こえます)





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posted by きなり at 07:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ドロップ

2009年10月29日

091028「自分勝手な信仰」

 私は自分の大切な人が幸せであってほしいと強く願う。自分や自分以外のたくさんの人が幸せであればいいと思いはするけれど、やはり、自分が信じ、愛する人が幸せであってほしいと強く願う。

 私は私の大切な人が幸せであることを一番に望む。それは裏返すと、その人が幸せになるならばその人以外の人が不幸せになることを受け入れることになり得る。

 願うことが美しいとか尊いとか立派だとか言われる「見た目」をしていたとしても、それが「自己中心」で「自分勝手」で「自分本位」な『欲』であることに変わりはない。
 自分の大切な人が幸せであってほしいと願うことは、私のエゴにすぎない。

 大切な人を大切にするためなら自分がどうなってもよい、とは言わない。大切な人を大切にしようと思うのと同じ強さで、私自身も大切にしたいと思う。
 私が大切だと思う人は、私がその人を大切だと思うのと同じように、私のことを大切に思ってくれるだろう。私が幸せでなかったら、私がその人のために犠牲を払うことになったとしたら、その人は悲しむだろう。私の犠牲の上にその人の幸せが成り立つようなことになったとしたら、その人はその事実により、自分のことで苦しむ以上に苦しむだろう。
 だから、私の大切な人が本当に幸せでいるために、私自身が幸せで居続けることが絶対に必要で、そしてきっと私たちは、誰かの苦しみの上に幸せを得たとしても、本当の幸せを感じることはない。

 それで ─── 私は、自分の大切な人が幸せであってほしいと強く願うほど、自分や自分の大切な人以外の人たちを切り捨てるのとは逆に、自分を含めたみんなが幸せであることを強く願う。そんな自分勝手で自己充足的な欲を満たしたいがために、私は、大いなる存在の前に跪き、自分の欲を満たしてくれるよう目を固く閉じて祈る。

2009年10月25日

091024「いわば僕が書かれる」

 昨年から私は、身動きのとれない状態にはまり込んでいました。何を望んでいるのか、どうなりたいかはぼんやり見えつつも、今の私ではどうしようもない、私には能力も知識も技術も足りない、しかも下手に動いたら大切なものを失う、それは嫌だと、その状況にとどまることを選んでいました。

 しかし、「なんとかしたい」、とにかく「なんとかしたい」と考え続けている中で、自分の現状を自分中心にではない目線で、今より先まで見る機会を得、自分がどうこうなんかよりも大事なことがあるんじゃないかと、少しずつ見方が変わっていきました。

 そして、「とにかくなんとかしたい!どうか助けてください!」そう強く望んだある時、どうすればよいかの答えが手渡されました。


─── いつか、僕の手が僕から切り離されて、何か書けと命令すれば、僕の考えもせぬ言葉を書くようなことがあるかもしれぬ。全く変化してしまった解釈の時間が始まるだろう。もう言葉と言葉とがまともに続かなくなってしまうのだ。一つ一つの言葉の意味は、雲のようにつかみどころがなくなり、水の様に流れてしまうのだ。僕はしかし、おそろしい恐怖にもかかわらず、結局何か偉大なものの前に立たされた人間だという気がする。何か書いてみようという気持をちっとも持っていなかった時分から、僕はときどき、そんな気がしたのを覚えている。しかし、今度は、いわば僕が書かれるのだ。僕が何かを書くというより、むしろ僕が何かに書かれてしまうのだ。僕という人間は刻々に変化していく印象ではないのか。もう少しのところで、僕はすべてを理解し承認することができるのかもしれぬ。もう一歩踏み出すことができれば、僕の深い苦しみは幸福に変るだろう。 ───

『マルテの手記』 リルケ/大山定一訳 


 "まかせること"  ───  「信じていない」「信じられない」と、"口に出さずにはいられない人こそ"を、見守り、支え、受けとめてくれる存在に、『自分を含めた「みんな」』が、いちばんよい解決に至るために、私を使ってほしいと願いました。
 自分で自分をコントロールするのではなく、すべてを見通している、私たちすべてを見守っている存在に、私を動かしてもらうこと。今の私の目で見たら、つらいとか望んでいないとか思うようなことでも、時が流れ、すべてが解決した地点から後ろを振り返った時に、そこで担うべき役割を果たし、私自身これが一番良かったんだと思える、そんな全体にとっていちばんよい未来を得るために、私を利用してもらう ─── それは、私ひとりで頑張るより、きっと、うまくいく。

 私にできることは"書く"ことです。自分の近視眼的な結果や解決法に囚われず、今書くべきことを必死に書きます。後先は考えないことにしました。そこは全体が見えている、きちんと収まるべきところに収まる道すじを知っている存在に任せます。私はただ、私を動かすその存在に <一時的にではあるけれど> 自分をゆだねて書きます。

 どんな展開も行動も、決断を「託してしまっている」ので、ただ受け入れていくだけです。もちろん、操作され利用される私自身は今までと変わらない自分なので、状況を喜んだり悲しんだりもするけれど、「後ろから支えてもらっている」と思っているので、「あまり怖くはありません」。

 私は、私がそうせざるをえないことをしていくだけ ─── "いわば僕が書かれる"

2009年10月21日

091021「 [ わたしたち ] は、無邪気に 真剣に 全身全霊をかけて 敷石を投げつける」


 人間はもちろん、どんな動物も近寄らないへんぴな山奥に、一頭の熊が住んでいた。しかしさすがの熊も、話し相手のいない孤独な生活が疎ましくなってきた。一方、そこからほど遠からぬところに園芸好きな老人が独り暮らしをしていて、物言わぬ花だけが相手の生活に、こちらもだんだん嫌気がさしてきた。誰か仲間が欲しい。そう思って老人が外へ出ると、おなじように退屈して山から下りてきた熊にばったりでくわした。恐怖に身の竦む思いを味わいながらも老人は熊を自宅に招き、料理を振る舞う。意気投合した彼らはいっしょに暮らしはじめ、熊は狩りに出かけ、老人は庭仕事に精を出した。ただし、熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わずらわしい蠅を追い払うことだった。ある日、熟睡している老人の鼻先に一匹の蠅がとまり、なにをどうやっても追い払うことができなかった「忠実な蠅追い」は、ぜったいに捕まえてやると言うか言わぬか、「敷石をひとつ掴むと、それを思い切り投げつけ」、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまったのである。

  かくして、推論は苦手でもすぐれた投げ手である熊は、
  老人をその場で即死させたのだ。
  無知な友人ほど危険なものはない。
  賢い敵のほうが、ずっとましである。


『熊の敷石』 堀江敏幸

 

─── え、これは投げつけてはいけないものなのですか? はい、わかりました、じゃあこれはもう投げないようにします。え、こっちもだめですか? そっちも? でも、だって、そこに、ほら、 ─── 。


「連絡船」 http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/
2009-10-16「連絡船」の一読者へのメール http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20091016


2009年10月13日

091012「信じることと言うこと」

  この文章が誰かを攻撃しているとすれば、槍玉に上がっているのは自分自身です。

*

 何か知らないことを聞いた時、語り手の言葉を信じるかどうかは、情報の中身ではなく、その語り手を信頼しているか、信頼できる人が語っているのかどうかが重要になる。信頼できる人が語っていることなら、まず聞く態度をとる。信頼できない人が語っているなら、中身に関係なく、聞き流す、または反論することを前提とした態度で聞く。
 では、先行情報がない場合、語り手を信じるかどうかを何で決めるかといったら、それは語り手を取り巻く状況や肩書きや態度など、「自分が理解できるもの」を使って判断する。
 この人は信頼してもよい、と思わせるもの。逆に、この人の話は信頼できない、とも思わせるものは何か。

 ごく素直に、これまで正しいことを言っていたから、今度の話も正しいだろう、という前提。新聞がそう書いていた、テレビでそう報じていた、常識だしみんなそうだと思っている、インターネットに情報操作のされていない真実が書かれていたのを見つけて読んだ、世界的権威の人が語っていた、自分の好きな人が薦めてくれた、親がそう言っていた、信頼できる作家の本にそう書いてあった、・・・、
 それらがまったくない場合に何で判断するかといったら、語り手が聞き手(自分)のことを認めているかを話す態度から判断する。直接の接点がない場合でも、自分が正しいと思っているものを正しいと語っていること、自分の考えていることを肯定する発言をしていること、聞き手に好意を持っていると感じられる人の話は、承認することを前提として聞けるように思う。

 逆も然りで、これまで嘘ばかり付いている人の話は信頼できないし、虚偽の情報ばかりを掲載している媒体を信頼しようとは思わない。また、自分が信頼していない人が、これは真実なのだと言いながら何かを話した場合、その中身に関係なくその「真実」を胡散臭いものとして扱ってしまう。そして自分を嫌っている人や、突然自分を攻撃してくる人の話を、両手を広げて寛容に聞くということも、普通はしない。 

 これは、良い悪いではなく、自然な反応。大小さまざまな幾千もの判断を行いながら滞りなく日々暮らしていくためには、ある程度ざっくり「ふるいにかける」作業は必要なことで「自分にとって大切だ」と思うことをきちんと考えるためにも、いちいち「自分にとって重要でない」ことに、労力をかけようとしないのが、「当たり前」の反応だと思う。また、攻撃されたら逃げるか身を守るのは生き物として当然の反応。攻撃者に同調して寄って行ったらボロボロにされてしまう。また、危険なものには近寄らない、触らぬ神に祟りなし、判断できないことは傍観するか反応しないのが一番。これも、普通の反応。

 許可と承認。そう、誰でもみな許可と承認を求めていて、それを与えてくれる存在に敬意を払う。それらは、当人が受け入れるのに不自然でなければどんな形でもいい。分かる人からすれば「なぜあんなものを信じるのか」ということでも、まったく当然に「信じることができる」。それは、それを「信じたいから」。中身が真実かどうかは関係ない。そして「信じたいこと」を語っている人も、「信じたいから信じる」。それはもうどうしようもない。「人は自分が分かっていることでしか判断できない」。その人自身が知る気・見る気にならなければ、どうにもならない。信じたいことは信じる、信じたくないことは信じない。良し悪しではなく、そうなってしまうのが事実。

 私は、ある馬鹿正直な若者が古市場広場でメディチ家にも少しはいいところがあると言ったばかりに、十人ほどの男に袋叩きに会ったのを目撃したことがある。幸い大した怪我はなかったか、私は、彼を擲り蹴りした十人ほどの男の突然の激情の発作にむしろ驚かされた。それは事の是非を冷静に考えるというのではなく、或る一事以外はすべて否認するという、極端に狭い心の動きに人々が閉じこめられていることを示していた。つまりそれに合致しないものは、一切合財、激烈に拒否されるが、反対に、それに合うと感じられるものは、事の当否に関係なく、すべて許容されるということになるのであった。

『春の戴冠』 辻邦生


 つい先日、地元の大きなイベントでアクシデントが起きたそうです。詳しくは知りません。ただ、予想しない事態が重なって、多くの人の期待を裏切る結果となってしまったようでした。
 アクシデント、ハプニング、予想を超えた事態。ミスはないほうがいいだろうし、予防措置や事後処理もうまくできたなら、それに越したことはないでしょう。でも、いくら入念に準備をしても、対策を取っても、うまくいかないことがある。どうしようもできなくなることがある。もう、それはやむをえないこと、しょうがないこととしてしか扱いようがないことがある。事後処理や反省を生かして次に大成功させるとか、そういった「これから埋め合わせをする」ことはできても、過去にさかのぼってミスをなかったことはできない。失敗そのものは、動かせない。
 このことに関して、恐ろしく腹が立ったのは、その失敗を吹聴し、正論を語る人たちが発生したこと。失敗した事実をもとにイベント事務局の不手際をテレビで語る人、事後処理のまずさや期待を裏切られる形になった人のがっかりした思いを代弁して新聞に投書する人。そして「それらのメディアが報じていた批判を口伝えにして笑い話のネタとして話す人」。
 そう、失敗した人を攻撃し批判するのは当然と、その実際を知らずに ─── 言うまでもなく、イベントに運営していた人たちが一番その失敗に打ちのめされ、どうすればそれを償えるかを日々考えているにもかかわらず ─── 正論を述べることを当然の権利とする人たちに、怒りが沸きあがるのを抑えられなかった。
 「事実を語るべきでしょう?」 ─── たしかに、通常テレビで当たり前に流された「恒例のイベントが今年も行われました」というニュースを見かけなかった。まったくしなかったわけじゃないだろうけど、例年のような形では報道されなかったように感じる。思いがけないアクシデントだったせいで、どう報道すべきか(報道するべきか否か)の結論が出なかったのでしょうか。事実を知らせること自体は必要なことだと思います。
 「誰かが言わなきゃいけないことでしょう?」 ─── 誰に言わなきゃいけないことなのですか?失敗をなくすための企画段階でのミスへの対策や事後処理へのアドバイスを述べたいならば、新聞やテレビなど不特定多数に向けて発言する媒体を利用するのではなく、本人(この場合はイベント事務局)へ伝えればいいのではないですか。
 「直言した」 ─── あなたは、当事者の方ですか。当事者の方であれば、すみません。それはあなたの権利です。私は部外者で、あなたのすることに文句を言いたいのではありません。当事者の方を攻撃したいのではなく、「ただ正論を述べるために正論を述べる場を探し渡り歩くスピーカー」に言いたいことがあるだけです。そのことに関わってもいず、成功させた時は何を言うわけでもないのに、失敗したときに限って(そしてメディアでその失敗が大々的に叩かれた後に)直接本人に正論を叩きつける人に言いたい ─── そこまでして自分が偉い人間だと思いたい?

 正論は、正しい。私もそれは知っています。
 ただ、なぜ自分がその「正論」を述べるか、「その発言をする自分の意図」をきちんと把握することが大事かなと。多くの批判やアドバイスは、「その相手」のためにという形をとって、「自分の欲求を満たすために ─── 自分の正当性を誇示するために」発せられています。それに無自覚な人 ─── ただ受け売りを口にするつけっぱなしのラジオのような人の話は、もとより誰も聞いてやしない。これ以上醜態をさらす前に、自分の行いを見直したほうがいいかと思います。

 「自分の正義を主張するためではない」「なんであれ自分の欲求を満たすためではない」、真に善なる動機から出ている批判なら、その「目的」は、「本当の目的」は、なんですか。その目的とそのやり方の組み合わせは正しいのですか。

 私は、未だ「まったく善なる目的から出た批判」というものが、わかりません。
 自分の意見とは異なる意見があったとしても、それはそのどちらも正しい(それぞれの立場での正当性がある)ので、批判という方法をとる必要がありません。ただ「違う意見がある」だけです。
 もし一方の言い分が「間違い(事実誤認)」であるならば、それは「正しいことを知っている側が間違いを正すための論拠を提示し、間違った人が何が間違いかを理解し、双方が納得できる答えを共有するに至る過程を踏むだけ ─── つまり、対話による認識のすり合わせが必要なだけではないかと、私は考えます。

 本当に正しいことを主張する場合、批判という形をとる必要など、ないのではありませんか。正しいことは、声高に主張することなく、正しいというそれだけで、もう「強い」のですから。
 

 フィオレンツァの人々 ─── とくに婦人たちは、修道院長ジロラモの言葉に酔い、悶え、燃え上がろうとして身構えていたからである。私が何を言おうと、男も女も聞く耳を持たなかったし、聞いたとしても、私の言葉など軽蔑するか、無視するかしたであろう。まるで快楽の邪魔をする人間に対するように、彼らは眼を血走らせ、私を突き倒すようなこともしたに違いない。
 それは酔いたいために酒瓶にかじりつく人々に似ていた。彼らの目的は酔うことだった。酔って燃え上り、恍惚とした至福感のなかで「主よ、主よ」と叫ぶことだった。冷たく批判したり、事の是非を見定めたりすることではなかった。「信じよ。信じよ。信じよ」という声に夢中になってしがみつくことだった。彼らはジロラモの言葉を聞く前に、すでに陶酔に飢えていた。恍惚に乾いていた。彼らの間から啜り泣きが起り、嗚咽の声があがるには、ただ花の聖母寺(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)のなかでジロラモの声が響きさえすればよかったのだ。

『春の戴冠』 辻邦生


 わかりやすさ。対立の構図。「あれが悪だ」「これが善だ」と明言してくれる存在。
 いや、明言したわけではないとしても、明言されるような状態、ひとことでまとめられる、言い表せるような状態になったとたん、爆発的に広がる。「わかりやすいから」。
 それは「言い表される物事の真実や思惑とは関係なく起きる」。

 自分の中にすでにある何らかの期待、それを「体現しているように見える」 ─── 実際が、真実がどうかとはまったく関係なく、「見る当人にとってそう見える」、それだけでいい、それにより、勝手に、「自分が思ったものとして扱う」。

 この人たちは幼いころから、自分の憎しみや自分に必要なものに知らん顔をし、押し殺すことを学ばねばならなかったのでした。ところが今やある人物が登場し、自分たちが後生大事に守ってきた市民的モラルそのものは決して疑問視せず、自分たちが教育の結果身につけた従順な態度をうまく利用してくれる、つまり自分たちを決して疑問だとか内面の危機だとかに直面させることはせず、その代わりに自分たちに素晴らしい手だてを与えてくれて、自分たちが生涯はじめの日から抑圧し続けてきた憎しみを完全に合法的に満喫させてくれるというのです。それに飛びつかない人がいるでしょうか?

 ユダヤ人が憎まれるのは、別にユダヤ人が何かをするからでもなければ何者かであるからでもありません。ユダヤ人がすることだとかユダヤ人のあり方などと言われているものはすべて、ユダヤ人以外の民族にもあることばかりです。ユダヤ人が憎まれるのは、人間が許され得ない憎しみを抱いており、その憎しみをなんとか正当化したいと切望しているからなのです。ユダヤ民族ほどこの正当化にぴったりの存在はありません。ユダヤ排斥は二千年にわたり教会および国家の最高権威により推進されたものですから、ユダヤ人を憎んだとしても何一つ恥ずかしいことはない、たとえどれほど厳格な道徳方針で育ち、魂の最も自然な興奮でさえ恥ずべきことと感じるようになっている人でもユダヤ人なら憎めるのです。

『魂の殺人』 アリス・ミラー 



 相手をよく見れば、その相手を信頼させる方法は簡単にわかる。
 その人が、信頼したいと思えるような「振舞い」を演じればいい。さらに、その人が心の奥底に隠し持っている望み ─── 自分ですら切り捨てたい・見たくないと拒絶している『醜い』願望を、それは悪いものではないと承認し肯定してやれば、それはより容易に成し遂げられる。

 人は、どんな人間でも、自分を称賛し正当化してくれることを望んでいる。従順を良しとされ、自分の意見を言えずにいるうち、自分の意見などというものを持つことすら忘れてしまった人の前に、自分の苦しみを理解し、善悪を明言でき、真実を語っている「ように見える」人が現れたなら、 ─── 、従順に、その意見に従うのは自然なことで、それを阻むものは一切ない。


 では、私は何を話そうとしているのか。あなた方が聞いたこともなく、聞きたいと思ったこともなく、あなた方から隠されていたこと ─── それを私はあなた方に話そうと思う。あなた方は美辞麗句によって真実から遠ざけられていたことを、私の話を聞くことによって、突然、理解するだろう。それを知れば、あなた方はいままであなた方を間違った道へ導いた人々を呪わしく思うだろう。なぜなら、その道は真理から離れて悪徳と虚偽の泥沼に通じているからであり、悪徳と虚偽の泥沼はあなた方を永遠に救いから遠ざけているからである ───

『春の戴冠』 辻邦生


 先導者 ─── 扇動者は、正しい(と信じたくなるような)ことを声高に言い、批判対象を具体的に示し、「それを攻撃することが正しい行い」だと礼讃する。熱狂したい人、正しい人間のように振舞いたい人、純粋に正しさを求める若い人 ─── 子供たちは、その「正しい『ように見える雰囲気』」に中てられて正義の名乗りを上げる。そして信じたとおりに、信じた人が求める行動をとるようになっていく。本当に、そうなっていく ─── しかも、少しずつそれらは変質し、本来その人が目的としたことと相反することも、正義の名のもとに行われるようになっていく、本当に、なっていく。そしてどんどん発言者の意思を離れた別な何かへと変質していく。
 扇動される人々の中にもいろいろな人がいる。一人ひとり、それぞれの思いを持って信じる。扇動されたわけでなく、純粋に言葉の中身に賛同している人もいる。
 でも、「騒ぎが大きくなると」、ひとくくりに「賛同者」(または「反対者」)とまとめられてしまう。その単純化こそが憎むべきもので、それを防ぐためには、「わかりやすくまとめられる見せ方」 ─── レッテルを貼らせること ─── を避けること、「中身を理解せずに扇動されてしまう人を引き付ける要素」を意識的に取り除き続けることが必要。

 一対一で向き合って話しているのなら、問題ありません。
 一対不特定多数という関係が、予期しない暗雲を呼び込みます。

 「壇上に上がって発言する状況」になっていたら、それは「踏み外し」の入り口に立っています。言葉を聴いている相手の顔が見えなくなったら、言葉を発している相手の顔が見えなくなったら、言葉はもう意味を伝える道具のとしての役割を果たしません。「壇上にいる人」の話を「下で聴く人」が「見て」いるのは「振舞い」だけです。「振舞い」だけで判断する集団の形成こそ、避けるべきものです。


 そのやり方は、敵味方を作り、わかりやすい宣言の元に集団を形成する空気をはらんでいませんか。

 わたしは、公の場で個人のミスを批判攻撃することを支持しません。間違いがあったなら、間違いが正されるために自分がとれる最善の行動をすればいいだけのこと。個人攻撃をすることが最善策となる状況があるとは思えません。

 自分の信頼していた人が自分が支持しない行動をとりはじめたなら、わたしがその行動を支持しないことをはっきりその当人に伝えることが、相手との信頼関係を維持するために必要だと考えます。
 相手が自分の考えに従ってくれることを望んでいるのではありません。その時点で立ち位置が違うことは明瞭なのだから、両者とも納得できる第三案を考えることが、よりよい状況に至る方法なのではないかと考えるのです。
 ただし、自分が相手から信頼を得ている、という前提がなければ、この方法論は無効です。わたしが相手にとって蠅ほどの存在価値しかなければ、何を言っても意味がありません。その場合にできることは、相手に信頼される人間になること、相手が信頼する人間の条件を整え、実際に信頼を得る行動を積み重ね、意見を聴いてもらえる関係 ─── 立場を弁えろなどと言われない関係 ─── を作り上げることが、前提となります。

2009年10月10日

秋の朝の彼女

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 気温が低いせいか、昨夜12時の時点でまだひらいていなかった花が、今朝6時頃に全開となっていました。
 真夏夜に妖艶な貴婦人と形容される柔らかな輪郭が、秋の朝の冷たい光の下では清烈な乙女というべく揺らぎない張り詰めた雰囲気をたたえる不思議。 
posted by きなり at 07:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ドロップ

2009年10月07日

秋雨の夜

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 タイフウの暴風警報が出ている肌寒い秋雨のなか、月下美人が咲きました。
 以前花を咲かせる秘訣を母に聞いたら、手をかけることだよ、と教えてくれましたが、特別なことをしているようには見えません。
 手をかけるって、何をしているの、とさらに聞くと、毎日話しかけるのよ、という答え。そんなあ、と返したものの、こんな寒い日にも花を開いている事実がありますし。
 今年このコは何回、そしていくつ咲かせたろう。今日またこうやって、きれいだねー、と話しかけながら写真を撮ったりするのも、花開く一因になるのかしら。

*

 書いてることがまとまらない。 思考が八方に散り拡がりすぎて収拾がつかない。  でも考えるのを止めなければ大丈夫。 

 水の音がする。 とても、静か。 

2009年10月05日

信じてはいなくとも

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美しい桜草を見るとき、私たちの喜びは高まりますが、それは<神的なもの>が濃く分有されていて、私たちが容易にそれに触れることができるからです。

『春の戴冠(上)』


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「いまのままのあなたを大切にできますね」
「ええ、できるような気がします。何だか、とても元気が出てきたようですわ」
「そうじゃなければいけません。もともと私たちは喜びのために生れてきたんです」
「そうでしょうか?」
「そうですとも」
「でも、私には、悲しいことと、辛いことのほうが多かったみたいです」
「それは私だってそうかもしれません。でも、そのことは、私たちが喜びのために生れてきた事実を否むことはできません」
「いま、それを信じることは、とても辛くて、できませんわ」
「信じる、信じないの問題でないことは、だんだんとわかってくると思います」
「そうだといいんですけれど……」

(同)

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 急ぎの仕事を中抜けして自転車を走らせ駅に向かう道の途上、線路沿いの土手に無造作に覆い茂る ─── もしかしたら誰かが植え育てているのかもしれない ─── 秋の草や実やその向こうにみえる空の色を、息をつめて見つめている自分に気づきました。いや、その前に、秋の憂いを含んだ光の下でも花が咲き乱れていることを、気づかずに日々を過ごしていたことに、気づいたのでした。

 風景の彩りとしてではなく、部屋を飾るためでもなく、ただそこで鮮やかな色をもって存在している草花のその強さを意識させられてからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
 美しいと言われるのは短い間だけでいずれ萎れ枯れて茶びた醜い姿を晒すその必然と、翌年季節がめぐって「当たり前に」その前の年、その前の前の年と同じように新しい芽を吹き美しい花を咲かせる、その事実を、知っていてもすぐに忘れてしまう。そして、その「当たり前のこと」を目の当たりにし、何度も驚き、そのたびに足を止める。

 光の化身のような春の花と同じく、深く濃い緑の中で小さく固い花と実をつける秋の草も美しく、触れたとき自分の中にその花開き輝く花の喜びが流れ込んできたようで、その幸福感は、悲しみにくれ立ち尽くした時と同じように胸を締め付けるのです。

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posted by きなり at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | me to me

2009年09月29日

朗読「花のレクイエム・まつむし草」

 辻邦生さんの短篇集「花のレクイエム」から、九月・まつむし草の朗読です。
 単行本4ページの物語で、長さは五分程度です。

 (音量注意ください・音が普通に拾えているのでこれまでの録音よりボリュームが大きく聞こえます)





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 まつむし草、どんな花かご存じですか?

 わたしは聞いたことのない名前だと思ったので、検索してみました。
 写真を見てもぴんと来ず。でも、淡い色、かわいらしい形、かれんな花だったので、少しうれしくなりました。

 画像は「四季の山野草」様のサイト http://www.ootk.net/shiki/ からお借りしました。
 こちらのサイト、成長する図鑑のようです(比喩表現ではない)。
 検索機能充実。掲示板もすごい。

 画像元の「マツムシソウ」のページはこちら 
 → http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_156.htm
posted by きなり at 00:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | ドロップ
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