権力を手にすると人の見る目は歪む ――― ”特権意識”と関係の歪みについて、
信頼関係に必要なのは「自分自身と相手を信頼し、目線を合わせて対話すること」。
澄江がどうすればよかったのか ――― たくさんの人と接すること。
自分に何が起きているか、彼女の側から見えることだけで知ることは、まず無理。自分自身が、他人よりも近い距離に存在することを許されているにもかかわらず、意思は拒絶され、コミュニケーションは遮断され、自ら決断する権利も放棄させられているから。
相手の思いを話してもらいたいという澄江の再三の懇願と、彼女がどういう思いでそうしているかを、その切羽詰った様子をすっかり見せているにもかかわらず、その「なぜそんなことを要求するのか、その態度の意味がわからない」と、相手の意図を軽んじ、なぜそんな要求をされているかまったく理解できないという態度をとり、わざと慇懃無礼な物言いで彼女の行動の「非常識さ」を指摘し、ついには門前払いをする等、彼女の行動すべてを「取り合う価値のないこと」と彼女が信じ込むに足るように扱うこと、しかも「彼女の行動を最初から完全に『自分の都合に合わせて』コントロールしている」こと。
”澄江には俺の深淵を理解できない” ――― これが真実かどうかはまず置いて、「理解できないだろうと本人が思っているならば」、そのことにつき澄江に話すことはない。
■関係の落差について
『関係の落差』のことを、ずっと考えていた。一方が高いところにいて、一方がそれを仰ぎ見る関係。同じ高さにいない人と、対等なコミュニケーションは取れるのか。”高いところにいる人”が、”下にいる人”に、敬意を抱くことができるならば可能、しかし、これは強制できるものでも、されるものでもない。
「下にいる人」は、もうそれだけで、「見下ろす対象」になる。
「上にいる人」は、もうそれだけで、「見上げる対象」になる。
この関係において、「見下ろしている人」は、高い位置に立たされる。否応なしにそうなる。本人がいくら拒否し拒絶の意思を表示し続けても、そうなる。
この事実を知っていないと、対話をする為に、お互いの目線を合わせる為に必須なことが抜ける。
「見下ろすは、見下すに転じやすく、軽んじる、見下げるにも通じる」。
落差がある関係、対等ではない関係が発生してしまうことは事実。その関係の中で、上にいる人が「相手よりも自分のほうが正しい」と考えるのも、自然なこと。
■関係の落差と、「人をどう見るか」の関係
人を人として見れなくなってしまうこと ――― 自分と接する相手が、自分よりも価値のない存在と”見えて”しまう「見る目の歪み」、自分にとっての利用価値のあるなしでその価値を判定してしまうこと、物事の重要性を自分の側の見方のみで一方的に評定すること、そんなふうに、相手が意見を持った一人の人間だということを”見えなくさせてしまう”、自分が思うとおりに「正しく」動いていれば何の問題も起きないのにそうしない「やっかいなモノ」として見、モノとして扱うことについて、その弊害について、『
箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』の本はわかりやすく説明しています。
本文から引用された本の帯の一文を引用します。
あなたには問題がある。そのことは職場の人たちも知っているし、奥さんも知っているし、義理のお母さんも知っている。そしてご近所の人たちも知っている。問題は、君自身が知らないということだ。
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
この言葉を、「自分が価値を認めている人」から言われたら、衝撃を受け、その問題が何か教えてほしいと感じるのではないかと思います。しかし「自分が価値を認めていない人」から言われたなら、先の場合より衝撃を受けることもなく、その言葉を真剣に受け止めることもないように思います。
同じ言葉でも、誰が言うかで言葉の価値が変わります。必ず「誰の意見か」というフィルターを通過して受け取られ、それにふさわしい態度で受け止められます。
「自分から目をそらすこと」。自分の欲求がどこからきているか、そして、それから目をそらす、逸らさせるもの ――― 他人の存在。人を人として見ない、というだけでは認識が足りない。人をモノとして見ている、人を人として見ていない状態は、相手を見る目が歪むと同時に、「自分は(あいつとは)違う」という認識になり、自分自身を見る目も歪んでいます。
おおきな木の中のりんごの木が、擬人化されていないそのまま人間の姿をしていて、豊かで幸せそうなその姿がみすぼらしい姿になっていく過程をみて胸が痛まないのなら、その人にとり相手はモノになっています。相手の苦しみ悲しみが「どうでもいい」「関係ない」と感じるなら、それは「まやかしの高い立場」に自分を置いている証拠。まやかしの高い立場 ――― 『特権意識』。これは便利で都合がよく無敵。これをどこかで使う人は、必要に応じて至るところで利用します。
*
自分は違う、という考え方をしている人の、その考えの根拠がわからなかった。人を踏みにじるのはいけない、人に悪意をぶつけてはいけない、それをわかっている人が、人の悲しみや思い込みによる呪縛やその害悪を憎み、それをなくそうと心を砕いている人が、なぜ「特定の条件化では人を罵り悪意をぶつけることが許される」と考えるのか、わからなかった。
肥大した自尊心がどういうものかを理解しつつ、自分がどうなのかを検討し、自分はとり憑かれていないと結論を出し公言しているものの、他人からみればとり憑かれていると見える人がいます。なぜなのだろう、とずっと疑問だった。
他人の落ち度は咎めるのに、自分の落ち度は落ち度と認識しないのはどうしてだろう、見た姿や状況に違いはあるけれど、こんなに同じような行動、自分が罵る相手と自分自身が同じ行動をとっていることを、なぜ気づかないのだろうと、ずっと不思議だった。
もしくは、罵っている自分自身の姿を、相手に投影しているだけではないかという状況(そう、相手は罵られるような行動をしておらず、むしろ自分の行動こそが罵られてしかるべき状況、罵っている相手ではなく、自分自身にその罵りの言葉を浴びせたほうが適切なのではないかというほど、自分の行動が客観的に見えていない状況)にその人が陥ってしまうのは、どうしてなのだろう、と、ずっとわからずにいた。
もう少し突き詰めると、気がついていないのではなく「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった。「あれと一緒にするな」と。私からすると「それ」と「あれ」と何が違うのか、そこを区別するのは何なのかと、更に考えた。傍目に見て同じようなものを区別するものは何か。
『相手をどう見るか』だと最初は思っていた。だから「箱」の考え方を知り、自分の見る目を不当に歪めてしまう原因、「相手を人としてみないこと」、軽んじても構わない、軽んじられて当然の酷い人間だと相手を認識する自己欺瞞の存在、自己正当化の仕組みを納得できれば、その「偏見」は解消されるのではないかと考えた。
でも、それでは足りない。相手をある程度まで人として見ていたとしても ――― そう、自分と同じように扱われる人間なんだと思っていても、自分が公平に扱われ尊重されるべき存在として扱われてこなかった・認識していなかったならば、相手も(自分と同じように)「状況に応じて」公平に扱われないこともある・低く扱われることもやむを得ない、という考え方になってしまう。
また、特定の条件下では、相手を人と見つつも、軽視する(ような扱いをすることがある)ことを知った。自分をどう認識しているか、その自分がどういう態度をとっているかという自己判定に基づく自己正当化。「正しい人であろうと努力している人こそが犯しがちなあやまち」 ――― 人の心の仕組みや社会の不条理を理解しつつ、自分の中にある悪魔的な感情につき長い年月こんなに真剣に考えてきて、その結果こんなに公平で公正な振る舞いを心がけている自分が、批判されるようなことをしているわけがない、という認識。
「事実」。誹謗中傷ですら「それは事実だから、それを言うことは間違ったことではない」という考え方、その捻じれた考えがどう間違っているか、判断がつかなかった。怒りが湧くのも、その怒りの元 ――― 正しいことが為されていないことへの憤りがあることは理解できるけれど、なぜそれが「自分の暴力的な言動を肯定する理由」になるのかがわからなかった。
”自分が正しくて相手が間違っているから憤っている” ――― 何を根拠に、そう思うのかが、わからなかった。たとえ事実その通りだったとしても、それが”相手を打ちのめす根拠”にはならない。なぜ「すべてをわかっているひと」が、そんなことをするのだろうと、ずっと考えていた。
――― 重大な誤りを犯し続けているからだ、間違っているとわかっていてそれを止めるどころかもてはやす奴等も重大な過ちを犯している!
ずっと、ずっと考えていた。正しいとされている考えと批判されているその人の考えが違っていることはわかる。でもそれが、相手を踏みにじる根拠に直結している”ように見える”言動に繋がっている理由が、わからなかった。
それが、今回現実に起きたアクシデントで、自分がその「立場」に立ったことにより、分かった。
自分が非難される対象となり「(相手からすると)疑う余地のない正当な根拠(お前が悪いのだからお前が責任を取るのが当然だ)」により罵られる経験をし、自分を守ろうとする気持ちから相手の望む言動(建前の言動)をとり、自分の意思と裏腹に相手と対等ではない立場に自分を置き、相手からすると「私を下に置き言動すべてを支配下に置く上下関係」、私からすると「偽りの寛容により生じた偽りの庇護関係」または「支配者と被支配者の関係」、いずれにせよ「落差のある関係」 ――― そう、関係の落差から生じた「立場意識」、その固定された立ち位置から見える相手そして自分の姿と、自分の中に生じた感情によって、わかった。
「関係の落差の認識」は、他人を操作しようとする考え方、自分には相手を操作する権利がある、という考え方を生じさせる。「自分は正しいのだからそうすることが適切だ」「自分は正しいのだから、そうされることは間違っている」という誤った考え方と、実際に自分の言動で行動を変える"べき"相手という存在により、「私が考えたとおりに"正しく"行動すべきだという『相手をコントロールすることを正当化する考え方』」が生じ、どんな人にでも、 ――― 加害者だけでなく被害者にも ――― 「相手と自分は違う=意見が食い違ったときは相手が間違っているのだから"正しく"改めるべきだ」という「特権意識が生じてしまう」、同時に「事実としての関係の落差が生じてしまう」。
自分と相手は違うという認識は、関係の落差(立ち位置の優劣)の認識を生み、それぞれに立場固有の特権意識を持つようになり、相手を見る目や感情まで歪ませる。
*
ふたたび澄江について。澄江が、澄江に理解できるような態度を伴って拒絶されたなら、対応は簡単なんです。澄江は何もできない無力な存在ではありません。自分のことは自分で決めることのできる、(未熟であったとしても)一人の人間です。税所が思うより、澄江は税所のことを見ていました。税所の苦悶を、見ていました。税所本人が隠していたつもりでも、それは見えてしまうんです。相手を愛し、ひたむきに切実に見つめていたなら、それはわかります。
そして、澄江にしても、スメルジャコフにしても、未熟だとか欠陥だとかを抱えていたとしても、信頼する人には忠実で、相手が望んでいることで自らができる最大の犠牲を払った、命令されたからではではなく、”自分の判断で”。
■特権意識と正しさ
特権意識がどのように働くか ――― 特権意識を人がどのように利用し、それを用いた人がどのような心境になり、その結果どのような言動に出るかを、私に分からせてくれたのは、DV(ドメスティック・バイオレンス)の本でした。
DVは「人の尊厳を奪う行為」。
DVは「怖がらせ、あやつる力」。
DVは「相手をコントロールするための手段となる」。
DVの原因として考えられているものとして、女性の言動というものがあります。「男性が暴力を振るうのは、女性にそれなりの原因があるからだ」という考え方です。この考え方は、「女性が男性の意に沿わないときには暴力を振るっていい」ということを前提としています。
しかし、女性が彼の気に障るような言動を取ったからといって、彼が恋人やパートナーに暴力を振るう権利があるでしょうか。そんなことはありません。暴力を正当化できる理由は存在しないからです。暴力を振るわれて当然の人間は一人もいません。
DVの原因は、暴力を振るった人にあります。恋人やパートナーを自分の思ったとおりにコントロールしたいという「欲求」と、そのために最も効果的な方法として、暴力を振るうことを正当化する「考え方」が本当の原因です。暴力を振るう男性は、暴力の効果について計算した上で、意識的に暴力を選択しているのです。
Q&A DVってなに?
DVの加害者は「相手が間違ったことをしたからそれを分からせるために懲罰的な行動をとった」と考えています。「自分は正しいことをしている」、正しい自分を非難する、自分にこんなことをさせる相手の方に問題があるんだ、自分の方こそが被害者だと訴え、本心からそう考えています。加害者側の話だけを聞いた人は、相手に暴力をふるわせるようなことをした相手の方にも落ち度があったのではないか、と考えます。
しかし、語る本人の見る目が歪んでいたら、一方の話を聞いただけでは事実がどうだったのかはわかりません。加害者の言い分だけを聞いたなら「自分こそが被害者だ」という言葉を事実として受け取る以外ありません。
どんなことをしても、どこまででも自分を正当化し正義を主張することはできるし、話を聞いた相手にその正しさを納得させることもできます。「正しさ」は語る人により変化します。事実を知らない・知ることのできない相手に対してなら、「私は正しい」と強く言い切れば、堂々と言いきった人間の方が正しいように"見えて"しまいます。
■「正しさ」と「事実」と「相手をどう見、扱うか」の関係
「正しくない人」(適切ではない行動を繰り返す人・考えを行動に移したときに間違ったやり方をしてしまった人)や、「(なんらかの)基準を満たさない人」を、人としてみないこと話を聴くに値しない人間と切り捨てること。
DVが起きている関係では、どちらが正しくない行動をしたかについて、加害者被害者で正反対の認識を持ちます。本人がその考え方の問題を自覚しない限り修正できません。本人が自分で気づくしかない。
また、相手は対等に(公平に)扱うに値しない、それは事実かもしれないし現実的にそうであったとしても、自分が、その相手に、そのレッテル(相手は間違いばかりする劣った人間だ、まともな意見の通じない人間だ、見下されて当然の人間だ)を貼った時点で、自動的に自分を「まやかしの高い位置」に置き、特権意識を持つようになってしまう。
見下しているんじゃない、発言を吟味するに値しない、人として尊重する価値がない、”事実”そうなのだといわれたら、それが”正しい”場合、やはり事実は変えられないから、なんともしようがない。
それは「いい/悪い」ではなく、人である限り相手がどういう人間かふるいにかけるのは自然なことで、自分にとって重要な人とそうでない人、尊重する人とする必要のない人、上に見る人下に見る人、それを判断し区別し、その評定にふさわしい態度で接するのも、自然なこと。
正しくない人、未熟な人、自分より劣る人を尊重することは難しいこと。だから、尊重できそうにない人と接すること・距離を縮めることをしないほうがいい。その落差が真実であれ考え違いであれ、自分を高い位置に置く限り、見方は歪み、あやまちを犯す。事情によりやむなく落差の生じる相手に接しなければならない場合、そういう時こそ、普段接する人よりずっと意識的に「相手に敬意を払う」ことをしなければ、バランスがとれない。自分が正しいと疑わない状況では誰しも、権力 ――― 正しいことは権力になる ――― を振りかざすことになる。
権力の構造、などというと大げさだけど、自分を人より上に置いたその瞬間から、見る目が歪む。必ず歪む。相手が見えていなくとも「自分が正しい」という考えを握り締めることでも同様の状態に自分を追い込む。正しいことは尊重されるべきだ。それはそうだ。ではなぜその正しいことは尊重されていないのか ――― 相手が間違っていることに気づかない愚かな人間だからだ ――― 本気でそう思うの?私にはそんな状況が「有り得ない」と思うから、その考え自体に驚愕する。
相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ――― 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ。
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ヘルメルは、自分が何を誤っているかわからない。自分が正しいのだから。ノラが間違っているのだからノラが変わればいい、というのは、それはそれで間違っていないのかもしれない。ただ、それでは一生、そのまま。
澄江が非力な犠牲者でどうすることもできなかったのだ、という考えは、間違っているわけじゃない。ただ、この見方が含んでいる「歪み」は、そうした目で見る世界すべてに適用されてくる。
澄江も一人の人間です。無力で餌食になるしかない無力な子どもではありません。まったく未熟で親に依存しなければ生きていけない存在ではないのです。自分の意思で、それを選んだ。そうするのが最善と。しかし澄江は、税所の望みをかなえたいとは思っていても、税所がそのことをずっと悔恨し続けてほしいとは願わなかった。税所が笑ってくれることを望んでいた。税所の幸せのために自分がいない方が良いと判断した、その偏った判断を避けるのに必要だったのは、税所の本心を告げてもらうことでした。
■「正義の人」は他人を批判してはいけない
立場の違い。正しい人は正しい。正しい人は正しくない人の話を正面から素直に受け止めることができない。「どうせ間違っているから」。その意見は「正しい」。正しいけれど、正しいならば、その「正しい人」と「間違っている人」とは、信頼関係を築けない。「まともに話を聴くに値しない人」を信頼するなんて無理なこと。
相手が100%間違っていて、本当に、心底どうしようもない人で、「その人の話は聴くに値しない」、「ほかの人のように扱う価値がない」 ”あなたにはわからないかもしれないけれど”――― その考え方、間違いです。それ、主観でしかないもの。
ずっと、わからなかったのは、その言葉が「間違いであるのに、自分でも間違っていると感じているのに、きっと正しいはずだと思い込んでいた」から。私の思い込み、考え方の歪みがそれが間違いだと断定できなかった理由のひとつです。
行動がとんでもなく間違っている人がいたとしても、その人を罰してもよいということにはならない。相手の行動と対立する意見、批判的なことを言う”必要がある”ならば、必ず「相手は自分と同じように、喜怒哀楽の感情を持ち、周囲には多くの人がいて、その人がそれまで一定の年月をかけて築いてきた社会的な地位や立場、数々の功績や失敗がある、一人の人間であること」に、敬意を払い、人として相手を見据え、相手と向き合った状態で、その人の言動の何が”自分の考える正しさ”と相容れないかを指摘する必要がある。
その上で、対応策(批判の目的 ――― 間違いの修正や改善案)を明言する必要がある。そうでないと、 ――― ただ自分の思い通りにならないことの鬱憤を晴らすための誹謗中傷になる。事実がそうでないとしても、”そう見えてしまう”。
「自分は正しい」は、特権意識につながる。正義を押し通す理由も「正しいのだから」では理由にならない。正しいのにないがしろにされているなら(正しくないことが正しいこととして通用しているなら)、その正しくないと考えられることが、正しくないにもかかわらずまかり通っているのはなぜかをきちんと把握し、その原因に直接関わっている人に向き合い、事実を確認し、自分の意見を伝え、間違いが解消されるよう働きかけること、必要なのはただそれだけ。自分から見て正しくないことが正しいとして通っているなら、違う人からするとそれを「正しいと判断する理由」があるのだから。
本当の正しさが何かを知っているのなら、間違った判断をしてしまった人を「正しい判断に導くこと ――― きちんと相手が自分で正しい判断できるように事実を提示すること」を、してもよいし、しなくてもいい。それは「自分の意思で、自分の権利を行使して行うこと」。義務じゃない。その際も、相手の人格や人間性(自分の主観から見える姿)を非難すること、相手にレッテルを貼り見下す態度を取ることは、相手を防衛的にさせ対立を激化させ問題解決を困難にさせるだけ。それをわかった上での誹謗中傷なら、ただ個人の感情の発露でしかなく、そこで正義を名乗ると欺瞞になる。
本当に、本当に「状況の改善」を望むならば、 ――― 相手に敬意を払い、対等な立場で、相手に意見を伝えなければ。それができない人に、人を批判する権利などない。
批判は、きちんと意見が交わされる土台があってこそ成り立つ。「正しい」自分の立場を固持し、一方的に「間違った」相手を批判したら、ただの誹謗中傷に成り下がる。双方通行の環境(対話の土台)がない場合は、それを作ることも平行して行わなければ、「いかに意見が正しくとも」一方的な暴力でしかない。
批判するならば、批判するのは「間違った言動」に対して行われるべき。「間違った行動をした人」はあくまで「間違った行動をしてしまった人」であり、「間違った人間」ではありません。「間違った人間」を「間違った人間(=悪人)」として固定した目で見、自分の考える正しさ通りに行動することを求め糾弾したならば、それは偏見による差別または私怨による権力の濫用でしかなくなります。
■正しい人とは信頼関係を構築できない
私は、お互いに相手の幸せを喜べる関係が、よい人間関係だと思う。仕事であれプライベートであれ直接の接触のないインターネット上で意見を交換し合う人であれ一見限りの接点の人であれ。しかしそれも、私の考え方であり、すべての人がこの考え方である必要はなく、また、この考えに異論がある人と私とは、信頼関係を築くことができないけれど、それは”しょうがない”こと。その人と私との間に築ける最良の関係は、相手の信条を傷つけない、お互いが不快でない距離をとること。私は相手が傷つくのが嫌だ。相手はもちろん自分も苦しい、そして相手から信頼を得ていない自分には、相手の傷を治すために何をすることも叶わない。
失った信頼を回復するのは困難です。だから、信頼関係を築くことができなくとも、相手に、二度と顔も見たくないなどという感情を抱かせないように、相手を尊重した上で、適切な距離を保ちたい。それと同時に、私を罵り踏みにじることを正当化する人 ――― 私を人として扱うことが困難な人、私の欠陥のせいであっても、相手の心の問題であっても、どんな事情があろうとも ――― に、深入りしないこと。私はその人にとり「必要ではない」のだから。私を攻撃することで相手も私も苦しむ(こともある)、攻撃された私自身も苦しむ、私を大切に思う人も苦しい思いをする。関係を続けることが、誰の幸せにもならない関係もある。
今の私では、私を人として尊重できる人 ――― 立ち位置を同じくすることを当然と考え、私の意見に耳を傾け、私に本心を話すことのできる人、そして当然に、私自身も相手を人として尊重し、相手の意見に耳を傾けたい、本心を話してほしいと望む人 ――― 一人の人間として尊敬でき、自分と違う意見を持っていることが当然であり、しかしそれは自分の意見と同じように尊重される価値のあるものと考えている、それぞれ出来ることや能力は違っていても対等の立場でありたいと、双方通行でこの考えを持っている人としか、信頼関係を築くことができない。
私を人として尊重できない人に私を攻撃させないこと。私自身を大切に思ってくれる人の目に、私を傷つける人との接触により私が消耗し打ちのめされていく姿は、どう映るのか。私は、私を(が)必要としない人よりも、私を(が)必要とする人を大切にしたい。自分を守れない人に、自分を守ることに無関心な人に、自分なんてどうなってもいいと捨て身になれる人に言います ――― あなたが”どうにか”なってしまったとき、誰がその身を挺してでも守りたかった何かを守るの?自分自身を大切に扱えない人に、大切な何かなんか守れない。
■「お互いが本当のことを話す」 ─── 信頼関係はここから。
物語にせよ現実にせよ、他人の気持ちは表面に現れた言動からその動機(心情)を推測するしかない。それは相手の真意と必ずしも一致しない。必ず推測する人のフィルターを通して解釈されるのだから。本当の気持ちが、本当の動機が、本当の目的が何なのかは、推測するより本人自身から本心を話してもらうのが一番いい。
見えるのは、実際の言動のみ。どう見せたいか(どう見られたいか)というより、本当のことを言わないと、本当のことは伝わらない。接するすべての人に(全世界に!)、というのは難しいけれど、自分が大切にしたい人には、大切にしたい人だけには、きちんと”本当の姿”を見せたほうがいいなと、そう思います。
長いあいだお付き合い戴き、ありがとうございました。
参考書籍について