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春の戴冠〈3〉 (中公文庫)
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春の戴冠〈4〉 (中公文庫)
リンクは最近出版された中公文庫(全四巻)のうち、今回読んだ新潮社単行本下巻に相応する3・4巻です
私が言いたいのは、サンドロがどんな場合にも、昼の世界の向う側にある、暗い、おぞましい、不安な風の吹く夜の世界を忘れることがなかった、ということである。彼が地上の生活を抱きしめたいと言ったとしても、それは、父の家の晩餐の常連だった葡萄酒商のミケーレが陽気に賑やかに盃をあげて、「ああ、生きてるってことは素晴しいですな」と叫ぶのとは、全く異なっていたのである。
『春の戴冠(下)』 辻邦生 新潮社 P230
辻邦生さんの「春の戴冠」下巻を読了した。
上巻を踏み込んで読んでいない気がしてためらっていたのを、
朝倉さんの記事 ( 『
朝倉の雑記帳』
http://p9r.toypark.in/index.php 2009/03/30「辻邦生、バルザック、「同一の型」の反覆。」
http://p9r.toypark.in/index.php?e=481 )から後押ししてもらって読み始めた。
結論を先に言うと、私に必要だったのは下巻部だった。(言うまでもなく、上巻を通過しなければ、下巻で表わされる重さをその重さとしてとらえることはできないのだけれど。)
私が辻さんの小説に惹かれたのは、この「暗い、おぞましい、不安の吹く夜の世界」を踏まえた上で、かつて接したことのない純粋な光に満ちた世界、光だけの世界を描き出しているところにだった。無垢で美しいものは、無垢で美しいと思う。でもそれだけではなく、暗くおぞましいうすら暗いものが、その薄ら暗さに付随するヘドロの様な厭らしさ伴うことなく明瞭に存在し、明暗すべてを同等に包括し均一に手渡して見せてくれるところに惹かれ、今もそこに捕らえられているのだと、改めて感じた。
「春の戴冠」は「円形劇場から」と同じつくりだったのだと、下巻を読み終わってから気づいた。明るいところはより強い輝きと彩りに満たされ、闇は艶のある明朗な漆黒、淡々としているゆえに惨忍で忌まわしい。しかしいずれも自分の見聞する日常の延長線上にある。
楽しい、嬉しい、辛い、悲しい、そういう感情が、一個人の小さなものではなく、その場に時代に居合わせた人たちに共通した普遍的なもので、手の中に納まるものではなく、私自身がその感情そのものに包まれている感じがした。だからひどく辛い感じがしたとしても、それは胸が痛むというものではなく、自分の周囲の空気が薄い、自分の今立っている地面がゆっくり大きく揺れている感じで、自分ではどうすることもできない、自分自身の力ではどうすることもできない大きな力によって翻弄され突き回され自分がこの場にいることもただ外側からの力によってその場に居させられている、そう感じ、無力感に苛まれた。
自分たちと変わらぬ街の住民であったパッツィ家への人々への仕打ちを、コシモやロレンツォを信奉していた人たちがピエロへ向けた眼差しを、神聖であった本が汚い動物か何かのように眺められるのに直面し立ち尽くすさまを、回想録の書き手であるフェデリゴに忌まわしいものと予告され続けた予言者の ─── 私にはほつれを見つけられない信念を持つその人の ─── 言葉により引き起こされた「茶番劇」の惨めさを、ただの物語の中の、結末に導くためのエピソードなのだとは考えられない。この物語の世界も、自分の現状も、「永遠の劇場での出来事」だと思えるほど、自分と外側を切り離して考えることができない。客観視ができない。
信じきる、特定の事柄に自分のすべてを捧げる一途さ、燃え上がることの崇高さや純粋さ、危うさと愚かさ。そして燃え尽きた熱狂の醜さ。それを客観的に見せられてさえその状況に魅力を感じたりはまり込んだりしてしまう自分をコントロールできない。それが良い又は悪いという他者の意見に拘らず、私はこの「自分の外の状況に激しく心が動かされ物の見方が変化していく ─── 本心を言うなら『自分の思惑を無視して変化させられてしまう』 ─── 状況を、絶望的だと思う。それを見逃すこともできない(許すことで直面することを受け入れられない)し、肯定することもできない。さらに、肯定できない自分を、忌まわしく思う。
著者が読み手であるこちらに繰り返し述べ手渡してくれている、そこまでの闇をすべて踏まえた上での肯定を受け取ってさえ、状況の変化や時の流れ、期待どおりの結果が得られなかったことによる人の心の変化を、受け入れたくない。
相手に心酔し熱狂したのち忌み嫌い徹底的に踏みにじる、しかも「自分の行いがまったく正しいと確信しながら、信頼し愛着を表現してきた相手を打ちのめす」こと、その勝手さ、自己中心のその素片が自分にあることを認識しているゆえ闇はより濃く映り、肯定のための日常への敬意を見出していないから光が消し飛んでしまう。
それは事の是非を冷静に考えるというのではなく、或る一時以外はすべて否認するという、極端に狭い心の動きに人々が閉じこめられていることを示していた。つまりそれに合致しないものは、一切合財、激烈に拒否されるが、反対に、それに合うと感じられるものは、事の当否に関係なく、すべて許容されるということになるのであった。
同 P397-P398
アンナは正義の観念にとりつかれているんだ。もう少し年齢(とし)がゆけば、どんな観念も、ただその形のままで地上に存在し得ず、それが存在するためには、つねに、物象(もの)の形を借りなければならない、ということがわかるようになるんだよ。しかしいまは、まさしく正義の形を正確に切り抜いたような存在を求めるために、苛立ったり、絶望したり、憤怒に駆られたりしているんだね。
同 P372
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この文章を書いたのは、二ヶ月前の四月半ば。あと二つ、「春の戴冠」を読んだことで感じ、考え、掲載しようとして保留にした記事があるので、少ししたら上げます。